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いばらき大使

いばらき大使のコーナーへようこそ! 


平成18年のふるさと大使全国大会のお知らせ
  Date: 2006-08-28 (Mon)

さて、本年も、ふるさと大使の全国大会を開催することと
なりました。 ふるさと大使でなくても、みなさん、誰でもふるさとを
お持ちですね。 そして、ふるさとを思う方は、どなたさんでも参加
できます。 御関心のある方は、是非と存じます。

会の次第は次の通りです。 よろしく御願いします。


「ふるさと大使全国大会2006」のご案内

ふるさと大使制度は、自治体や商工団体などにより全国各地で現在140余が制
度化され、郷土を応援する「ふるさと大使」に約1万人が委嘱されています。各
地の委嘱団体およびふるさと大使の相互の情報交換・交流・連携を図り、ふるさ
とや地域の活性化に貢献することを目的に1996年、全国ふるさと大使連絡会
議が設立されました。以来毎年「ふるさと大使全国大会」を開催し、今年は11回
目を迎えます。この大会が、市町村合併等地域の在り方が問われている今こそ、
ふるさと大使の方々はもとより、できるだけ多くの方々の参加を得て、ふるさと
づくりのための情報交流や活動の一助になることを期待しております。
 
全国ふるさと大使連絡会議 代表幹事  後藤 純雄(伊那市ふるさと大使・
飯島町ふるさと大使・ 箕輪町ふるさと大使・象潟町ふるさと宣伝大使)
「ふるさと大使全国大会2006」 実行委員長 川守田孝平(はこだて
観光大使)

     「ふるさと大使全国大会2006」の企画内容

日時 2006年10月19日(木) 午後5時30分開会(5時15分開場)

場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館) 3階「富士の間」
    〒102-0073 東京都千代田区九段北4-2-25 
    03(3261)9921
【JR総武線・地下鉄有楽町線・南北線・新宿線市ヶ谷駅、徒歩2分】

次第 第1部  総会(活動報告・役員改選等)午後5時30分〜6時

   第2部  記念講演 講 師  梶原 拓 氏(前全国知事会会長・
       前岐阜県知事)
       テーマ  「 地域の自立 」          
       午後6時〜7時
 
   第3部 ふるさと自慢と懇親会                    
       午後7時〜8時30分

それぞれのふるさとの紹介とふるさと自慢の時間とし、地酒・特産品を前に
ふるさと大使や地方公共団体及び参加者の人々におおいに交流していただきます
会場でわがふるさとを自慢したい方を募集します(事前にお申し出ください)
       総合司会  橋本純子 氏(NHK BSキャスター)

会費  7,000円(事前振込の方は 6,000円とします)

振込先 郵便振替は  加入者名 「全国ふるさと大使連絡会議」
    口座番号 00190-7-149658

銀行振込は 口座名義 「全国ふるさと大使連絡会議」
    埼玉りそな銀行 南越谷支店 普通預金 口座番号 4912688 

主催 全国ふるさと大使連絡会議
( 事務局 〒343-0824 埼玉県越谷市流通団地2-1-1
   埼玉県倉庫団地協同組合内 甲斐秀治 048(985)2165 )

後援 総務省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、茨城県、北上市、
にかほ市、水戸市、伊那市、薩摩川内市、ニセコ町、鵡川町、飯島町、箕輪町、
釧路商工会議所、(財)都市農山漁村交流活性化機構、
(財)日本地域開発センター、日本放送協会、日本経済新聞社(依頼中も含む)

出欠は 10月5日(水)までに、いばらき大使の仲津真治からのお知らせを受けてと
記していただいて、

  Eメール ksouko@io.ocn.ne.jp 宛てご回答ください。

※特産品等のご提供のお願い
それぞれのふるさと自慢をしていただくことも大使の仕事と考えますので、委嘱
されている団体等とご相談いただき 地酒・ワイン・地ビールや特産品等の持ち
込みも是非よろしくお願いいたします。
事前に事務局宛に連絡のうえ、会場の「アルカディア市ヶ谷用度係」に直接ご送
付下さい。
_________________

いばらき大使 仲津真治

取手第九合唱団
http://www.geocities.jp/tonegawaichirou/dai9.html

取手男声合唱団(TMC)
http://www.geocities.jp/tonegawaichirou/tmc-top.html

新しいホームページを開き、更新を続けています。
楽しい読み物が充実していきます。
http://nakatsu-masaharu.moe-nifty.com/triajhtml/

今までのホームページも生きています。
時の話題が豊富、動画や写真のある楽しいものです。
http://cocoroisan.com/users/nakatsum/

地域と電気は仲良く!
東京電力(株)顧問
http://www.tepco.co.jp/
_______________________________________

「蟻の兵隊」
  Date: 2006-08-22 (Tue)

>さて、この度、「蟻の兵隊」という、戦争を取り上げながら、全く
>戦闘場面がなく、しなも深刻な課題を摘出した映画を見る機会が
>ありましたので、これについて若干記します。
>
>
>かつて聞いた奇妙な戦争体験談
>
>私は、はるか以前になりますが、年配の上司から、奇妙な戦争体験に
>ついて聞かされたことがありました。 その人曰く、日本は
>「ポツダム宣言受諾」により終戦になったのに、その人が属していた
>部隊は、中国政府と話がついて、以降、閻錫山(えんしゃくざん)と言う
>将軍指揮下の中国国民党の軍隊と組み、中国共産党の軍隊と戦うことに
>なったと指示されたというのです。 そして、実際、熾烈な戦闘が行われ
>ましたが、日月が立つうち、「どうも、おかしい」と言うことになり、
>休戦し、日をおいて日本へ帰国、復員したと言うのです。
>
>
>歴史的背景
>
>今回の「蟻と兵隊」は、この実話を取り上げたものでした。 私は、
>上司が語った奇妙な戦争体験のことを扱った映画が製作され、
>上映されると言うので、これは見なければなるまいと思い、出かけた次第です。
>
>ここで、まず、歴史的な背景と起きた事象について記しましょう。
>
>閻錫山は、清朝を倒した辛亥革命の後、新しく出来た中華民国の国民政府に
>属していたものの、山西省を牛耳る軍閥の頭領となった人物でした。山西省は、
>いわゆる華北に在り、北京の西隣の河北省の西側に位置する中国の一地方です。
>
>この閻錫山は、同省の石炭などの豊富な鉱物資源を支えに、山西省に一種の
>王国のような支配体制を築きました。 もっとも、蒋介石の中華民国政府の
>第二戦区の司令官と言う立場にも在り、形の上では国民政府に属していましたが、
>山西省を独自の領域としていたのです。 この一例で分かるように、南京を首都と
>した中華民国の威令と統治は、倒した清の領域の隅々に行き届くと言うものでは
>なかったのです。 地方軍閥の割拠した時代と言うべきでしょうか。
>
>
>日本軍の進駐と戦中、戦後の取引
>
>日華事変の拡大により、この山西省にも日本軍が進駐してきました。 それは
>北支派遣軍の第一軍の部隊でした。 閻錫山は、自らの地盤を固め、当時、
>勢力を浸透させつつあった共産党軍に、自らの支配領域を奪われないよう、
>日本軍との衝突を避けるようにしました。 他方、日本の第一軍も閻錫山を
>利用して、日本側に協力させようとしたのです。 ここに、本来戦う当事者で
>ある両者間に、奇妙な連携関係が生まれていました。 そこへ、昭和20年
>(1945)の終戦となります。
>
>日本降伏直後の8月の末、閻錫山は、日本の第一軍の司令官・澄田中将を
>訪ね、何と、その全軍の残留と協力を要請します。 澄田司令官は、翌日、
>全軍はとても残せないが、一部なら可能と返答し、それも将兵が自らの
>意思で残ったようにするのが望ましいと伝えたと言われます。
>
>当時、中華民国政府から戦犯氏名を受けていた澄田司令官は、この取引により、
>何と、敵将閻錫山の総顧問に就任、山西省太原の共産党軍との攻防戦の
>作戦指導も行ったと申します。 加えて、翌昭和21年(1946)2月、閻錫山の
>更に強力な要請を受け、司令官の澄田中将や参謀長の山岡少将は、第一軍総勢
>五万九千の内の、一万五千から成る特務団を編成しようと命令します。
>
>
>特務団の企て
>
>既に降伏していた日本軍が、こういう事を企図するのは絶対許容できないと、
>事態を察知した、南京に在る支那派遣軍総司令部から、参謀の宮崎中佐が
>3月に太原に派遣されました。 中佐は日本軍全体の復員を担当していたのです。
>宮崎参謀は、「ポツダム宣言に反し、天皇の命令にも背く」、この企図を中止
>するよう強く説得しますが、澄田司令官等第一軍首脳は言を左右にして、従わ
>なかったと申します。
>
>映画では、事の真相を知ろうと、残留兵となり、戦った奥村和一さん(82歳)
>本人が、入院中で寝たきりの、宮崎元中佐を訪ねる場面があります。 そう、
>この映画は、俳優を立てるのではなく、往時、体験し、なお御存命の方々が
>登場するドキュメンタリーなのです。 娘さんに看護される宮崎元中佐は、
>撮影時97歳ですが、奥村さんの問いかけに、口を大きく開け、アー、オーと
>まともな言葉にならないものの、激しく反応します。 それは、問いかけの
>意味が分かり、往時の事を思い起こしたことを示す、意味の深い反応でした。
>
>
>特務団の中止と、企図が潜行した結果・・・・
>
>特務団の企ては、米軍、国民政府軍、日本の支那派遣軍総司令部の反対で、
>一旦中止されました。 しかし、その後、密かに進められたようで、結局、
>昭和21年(1946)の5月から6月にかけて、第一軍の主力が武装解除の上、
>引き上げた後も、約二千六百名が残留、昭和22年(1947)の7月には、
>日本人部隊が統合され、中国国民政府軍の独立第十総隊として編成されるに
>至りました。 そして、共産党軍と死闘を繰り広げ、結局約五百五十名が
>戦死したと言われます。 日本将兵が、戦後中国の国共内戦に加わって、
>戦っていたのです。
>
>この過程で、澄田司令官は、昭和24年(1949)2月、多くの将兵を
>残して脱出、日本へ帰国し、結局戦犯となることも免れたと言われます。
>
>映画では、奥村氏が、中国の山西省を訪ね、その公文書館で、この経過を
>示す文書を発見、閲覧する場面が出てきます。 そこには、「澄田司令官が
>事情あって日本へ帰国することとなり、道中偽名を使うかもしれないが
>よろしく面倒を見るように」との主旨の、閻錫山の署名入の手紙が残されて
>いました。 
>
>これは、国共内戦の最中でも、閻錫山の要請が通用する組織や体制が
>機能していたことを示す証拠であります。 更に、閻錫山とは、凄まじい
>人物で、表向きはともかく、長年、実際上対立関係にあった蒋介石の陣営に
>遂に入りました。 そして、国民政府が共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた
>後のようですが、蒋介石総統の下で、行政院長(日本式に言えば、首相)の職に
>就いています。
>
>
>残留兵の思い
>
>閻錫山の軍勢とともに、共産党軍と戦った残留将兵の人々は、結局
>敗れ、捕虜となり、抑留された後、昭和28年から29年(1953〜1954)
>にかけて帰国します。
>
>だが、日本では、終戦の翌年3月に、現地除隊の手続が取られ、軍籍から
>外されていたと言う運命が待っていました。
>
>映画の中で、奥村さん達は語ります、自分たちは軍の命令で、山西省の
>現地に残り、戦ったのですと、・・・・・。  さらに曰く、「日本は
>アメリカに敗れたが、中国に負けたのではない。 残留することになった
>のは、この山西省の現地に残り、日本の軍隊を立て直し、祖国を再建する
>ためだったのです。現に、澄田司令官などは、自分たちにそう言って、
>鼓舞したのです」と、
>
>この証拠として、奥村さんは、山西省の古文書館で、自分たちが残留した
>とき属した部隊の今村総隊長が作成した文書を見つけ出し、閲覧します。
>そこには、閻錫山の傭兵隊とはとても思えない、まさに日本の軍隊である
>ことを示す趣旨のことや、様々な日本軍の年中行事のことが記されていました。
>
>そして、更に語ります、「仲間には、残留後の戦いでも、天皇陛下万歳!と
>叫んで死んでいった戦友がいるんだ」と、・・・・・・・。
>「なのに、帰国後のこの扱いは一体何だ!」
>
>だが、この思いは、戦後、日本政府が取った見解とは異なるものでした。
>
>
>国会での論争と日本政府の立場
>
>問題は、昭和31年(1956)になって、厚生省が調査し、作成した
>報告書が出発点となり、国会で取り上げられるようになりました。
>与野党ともに、委員会で政府を追及しています。 その際、「同じ日本軍人
>なのに、山西省残留者が何故恩給を受けられないのか? おかしいではないか」
>という所が焦点になりました。
>
>政府側の取った見解は「この人々は、軍の命令ではなく、内地帰還の説得にも
>関わらず、最終的に自己の遺志で残留したものです。 従って、現地除隊等の
>手続が取られております」と言うものでした。 そして変わることはありません
>でした。 これには、澄田元司令官や山岡元参謀長の「全員帰還の方針を
>堅持し、あらゆる努力をしたつもりだ」などとの証言が有力な論拠とされ
>ました。 国会の委員会では「そうではない。 残留は軍の命令だった。」と
>する下級将校の証言も数多く出されましたが、それらは結局採用されません
>でした。
>
>奥村さん達は、この政府の見解に激しく反発しています。 実際体験した
>経過とも違うし、祖国の再建に寄せた想いと心情からも、とても受け入れ
>られないという事でしょう。 だが、同じ映画の中で、奥村さんは、こういう
>主旨のことも語っています。「ポツダム宣言を受諾し、降伏した日本が、
>その後に、軍の命令として、将兵を前線に残留させ、戦わせたとは、政府
>として絶対採れない立場なのだ」と。
>
>
>裁判の場へ
>
>その後も国会でのやり取りはありましたが、さらに問題は、法廷に提起
>されました。
>
>訴訟は、平成13年(2001)5月、元残留兵13名によって、東京地裁に
>起こされました。 事件名は、「各旧軍人普通恩給請求棄却等処分取消請求
>事件」と呼ばれています。 一審判決は平成16年(2004)4月に出されました。 
>その中で、判決は、「原告らは、日本軍の活動でないことを知りながら、
>あえて日本の敗北を素直に認めたくないとの意思から残留を継続した」と
>記しています。
>
>奥村さん達は「不当だ。 理解されていない。」と控訴します。 原告団は
>死亡や病気で減り、控訴人は8人でした。 東京高裁の二審も、平成17年
>3月に棄却の判決を出しますが、その中で、「控訴人らは、終戦後、帰国を
>希望していたものであるものの、当時の状況下の中で、不本意ながら残留
>したであろう事は想像に難くないが、・・・・」とまで記しています。 しかし、
>それでも、残留は自己意志に基づくものであるとの認定を左右することは
>出来ないとして、法的には棄却になるとしました。
>
>さらに、控訴人のうち5人が上告しますが、平成17年(2005)5月棄却と
>なりました。
>
>
>語り部としての映画
>
>法的には、かくて結着しました。 去年の秋です。つい最近のことですね。
>
>しかし、奥村さん達の思いは残ります。 82歳のご高齢ですが、
>自身の日常や負傷した体をさらけ出し、山西省の現地まで訪ね、当時起きた
>ことや銃剣による殺人など自ら行ったことを確かめるため、多くの人々と語り、
>目撃者まで探そうとします。 他の将校であった人々も、高齢を押して、映画に
>撮られ、辛い思い出を語っています。
>
>これらは、この映画に記録され、語り部となって現代に刻み込まれ、次の世代に
>受け継がれて行くことでしょう。 そこには、今からすれば信じられない
>ような現実があったわけですし、まだまだ、分からない闇の部分がいっぱい
>残っているのです。
>
>
>その一つを記しましょう。 奥村さんは、山西省で、かつて閻錫山の参謀で
>あったという人物と会うことに成功します。 その男は語りました。
>「閻錫山は秘密志向の強い人だった。 だがら、現場に一緒にいなかったこと
>以外のことは分からない。 自分も知らない。 しかし、閻錫山と日本軍の幹部の間に
>密約があったことは確かだ。 ただ、60年も前のことだ。 みんな死んだ。
>証拠も残っていない。 証明しろと言われても、もう誰も出来ない」と、・・・。
>
>
>小野田寛郎さんと奥村さんの論争
>
>この映画では、思わぬシーンも登場します。 残地諜者として、軍命を
>受け、敵地となった島に一人残り、長期に潜伏活動をした小野田寛郎さんは、
>発見後、元上官の命を受けたと言うことで、軍務を終え、日本に帰って来た方ですが、
>この映画で靖国神社に参拝し、挨拶する所が出てきます。 もとより、これもドキュ
>メンタリーです。 その場に、奥村さんが居合わせていました。 出兵したことに極めて
>批判的で、上官の命とはいえ、銃剣で刺殺した経験をもち、それを厳しく
>自省している奥村さんと、小野田さんは、対照的な立場に立っています。 映画は、
>短時間ですが、二人の間に起きた論争の場面を活写しています。
>この映画の、これまた一つのハイライトシーンでしょう。
>
>
>若い人
>
>私は、強烈な印象を受けた映画を見終わりました。 その後、映画館の階段を
>上がっていく小生を見て、まだ若い、小娘のような子が「荷物を持ちましょうか」
>と言って、重い鞄の片側を持ち上げてくれました。 これは有り難うとお礼を
>言いながら、小生は、その子に映画の印象を尋ねました。 とすると、
>「分からないところもあったけど、大体理解できた」との答えが返ってきました。
>
>戦争のことを知らない若い世代が増えている中で、それは「大したもの」
>と思った小生は、「かつて上司から、この体験を聞いたことがある」と話し
>ました。 すると、その子は、何と「自分はおじいさんから、聞いた」と
>言いました。 これを聞いて、私は安心しました。 世代を隔てても、
>大事なことが語り継がれていると、・・・・。 そして、その結果、その子は、
>関心を持ち、一人でこの映画を見に来たのだと言うのです。
>
>私は、階段を登り切ってから、あらためて、その子にお礼を言いつつ、
>ほのぼのとしたものを感じていました。 そういえば、客の入りも結構あり、
>若い人が多かったなと思い出しながら、・・・・・・・。
>
>
>ご一読有り難うございました。
>
>_________________
>
>いばらき大使 仲津真治
>
>取手第九合唱団
>http://www.geocities.jp/tonegawaichirou/dai9.html
>
>取手男声合唱団(TMC)
>http://www.geocities.jp/tonegawaichirou/tmc-top.html
>
>新しいホームページを開き、更新を続けています。
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>
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霞ヶ浦環境科学センター
  Date: 2006-08-22 (Tue)

>さて、この程、茨城県が昨年設置した、霞ヶ浦環境科学センターを
>見学する機会がありましたので、今回はこのことを中心に記したいと
>思います。 もとより、私は専門的見識を有しておりませんし、関連分野に
>通暁している分けでは決してありませんので、自ら理解している範囲で、
>できるだけ簡潔に、易しく書くように心がける積もりです。 割り切り型で
>書いて間違っているところもあるかもしれませんが、そこは御容赦頂き、
>御指摘頂ければ幸いに存じます。
>
>
>茨城県霞ヶ浦環境科学センター ・・・ 眺望の良いところに在ります。
>
>同センターは、霞ヶ浦湖岸の茨城県土浦市沖宿と言うところに在りますが、
>敷地や建物は、隣のかすみがうら市(最近、霞ヶ浦町と千代田町が合併して
>出来た市 昔は出島村と言いました)にまたがって、存在しています。
>
>このセンターの主なねらいは、霞ヶ浦の水環境を始めとする環境の保全・
>創造のための県民の取り組みを促進することと、それに資する研究調査とその
>成果の普及にあるようです。霞ヶ浦の湖沼水質保全計画の施策の一環として
>位置付けられ、県直営の施設として設置されました。 調査研究部門の外、
>充実した展示コーナー、文献資料室、研修室、多目的ホール、交流サロンなど
>から成り、利活用しやすくなっています。 実際、県内外から、見学者が多く
>訪れており、私が参りました日も何と秋田県からの小学生の一団など、多数の
>人々が入館しておりました。
>
>二階建てながら、敷地が湖岸の高台にあるため、湖、森、田畑、町並みの
>眺望は、なかなかのものです。
>
>
>霞ヶ浦の特長
>
>霞ヶ浦は、霞ヶ浦(狭い意味で言い、西浦ともいいます)、北浦、常陸利根川の
>三つの水域から成り、繋がっていて、利根川水系に属し、面積は約220平方
>キロと、琵琶湖に次いで大きい本邦第二の湖です。 その流域は湖の約十倍
>で、ほとんどは茨城県内に収まり、県面積の約三分の一を占めます。 
>
>この大きさとは対称的に、極めて浅い湖で、平均水深約4メートル、一番深い
>ところでも7メートルほどしかありません。 これは、元々は海であったため、
>海抜が低いことに由来すると言います。 実際、海に近いところにある湖沼には、
>このタイプが多く、県内の涸沼、牛久沼、千葉県の手賀沼なども同様の傾向が
>あります。 ちなみに、琵琶湖はもちろん、猪苗代湖や田沢湖等も、霞ヶ浦に
>比べ、面積はかなり小さいのですが深く、その湖水量は遙かに豊かです。
>
>この大きさと浅さが、湖内外の産業の発展や周辺の人口増加等によって、
>水質問題などの環境悪化をもたらす条件となりました。 流域の人口は既に
>約百万人に達しています。
>
>
>水質の汚濁
>
>昭和30年代なでの霞ヶ浦は、海水(湖水)浴場に大勢の人が遊泳に行く湖でした。
>しかし、昭和40年代に入り、水質の汚濁が目立ち始め、遂に、昭和48年
>(1973)に至り、アオコが大発生、まるで湖面は緑のペンキを塗ったようになり
>ました。 既に湖の利用として盛んになっていた養殖鯉が、大量死したのも
>この年です。 湖面に跳ね上がった魚が、アオコの層で水に戻れず、そのまま
>干からびてしまうことも随分あったと聞きます。
>
>また、大量のアオコは、浄水場の濾過施設に被害を与え、水道水にカビ臭を
>もたらし、湖岸に貯まったアオコは腐り、悪臭が立ちこめました。
>
>
>対策の強化
>
>当時、公害と言われた問題現象は、既に全国の各地で広がっており、昭和45年
>(1970)の公害国会を中心に、各種の立法が行われ、対策が始まっていました。
>水質の分野では、水質汚濁防止法がその代表です。 茨城県では、霞ヶ浦問題の
>深刻化により、これらの法制に加え、より強力な対策をということとなり、私も
>当時同県庁に在職しておりましたので、職員ともども様々な対応を進め、検討に
>加わりました。 そして、昭和55年(1980)に至り、霞ヶ浦に専念する「霞ヶ浦
>対策課」が設けられました。 
>
>かくして、県庁のみならず、県議会、審議会、県民会議など総力を挙げた調査・
>検討が行われ、専門的知見を活用して、昭和57年(1982)に「霞ヶ浦富栄養化
>防止条例」が制定・施行されたのです。 
>
>
>水質汚濁の原因と対策
>
>ここで、論を進める前に、水質問題の原因を捉えておきましょう。 通常、
>川や湖が汚れる最たる原因は、いろんな物質が流れ込むことにあります。 
>この中で、工場などからの排水は、製品製造工程などにかかる様々な物質を
>含んでいますので、そもそも、その排出を規制することが行われるように
>なりました。 水質汚濁防止法の主たる中身はここに在ります。 物質毎に
>排水基準が設けられました。中でも、危険物質など、公共用水域に出さない
>ことが義務づけられました。
>
>しかし、有機物の方は、いろんな所から出て参ります。 特に生活の雑排水や
>屎尿は工場・事業場に限らず、家庭からも出て参ります。 もっとも、これらも
>少量であれば、河川などの自然の浄化作用で、分解され、綺麗になりますが、
>量が大きくなれば、そうも参りません。 特に、湖沼は流れが少ないので、
>自然浄化力が劣ります。 ここで、決め手となるのは、下水道です。
>
>霞ヶ浦周辺では、もともと下水道があまり在りませんでしたが、本来担当の
>市町村任せにせず、国の支援を受けて茨城県が乗り出し、流域下水道が整備
>されるようになりました。 関連する公共下水道と合わせて、相当、進展し、
>成果は上がってきたものの、なお、その普及率は5割程度に止まっています。 
>農村地区の集落排水施設や個々の合併浄化槽等とも組み合わせながら、更なる努
>力が必要とされるところです。 後述する窒素やリンを除くには、高度処理も
>欠かせない段階に入っています。
>
> 
>富栄養化の問題
>
>さて、ここで富栄養化の問題を取り上げましょう。河川や湖沼に入る有機物が
>ほどほどに止まっておれば、自然の浄化力や、植物プランクトン → 動物プラ
>ンクトン → 小魚 → 肉食魚 などの自然の循環が働いて、水は程々の綺麗さに
>保たれますが、この有機物がその循環の限度を超えると、水は汚れ始めます。
>
>この多すぎる有機物に、窒素やリンが加わると、事は深刻となって参ります。
>これらを栄養源として、日光を受けた植物プランクトンが、盛んに炭酸ガスを
>取り込み、光合成を行い、繁殖していきます。 このうち、藍藻類のミクロ
>キステス等が大発生して、水面に浮かび、湖を覆うようになると、一面に青緑の
>粉を撒いたような状態となり、アオコと呼ばれるようになります。
>
>こうした栄養過剰の状態を富栄養化と言うのですが、アオコは、その一つの
>現れです。 
>
>
>茨城県の特別の条例と国の特別法の制定
>
>昭和48年の異常発生を契機に、茨城県は本格的な調査・検討に入り、昭和57
>年に、県独自の条例を制定するに至ったことは既に述べましたが、その内容は、
>霞ヶ浦の水質悪化の重大さに鑑み、水質汚濁防止法より厳しく(規制の上乗せ)や
>新たな規制をかける(規制の横出し)が主たるものでした。 
>
>そこでは、霞ヶ浦に水草などが少なく、ミジンコ等の動物性プランクトンが
>魚から身を隠すところがあまりなく、かくして、植物性プランクトンをあまり食
>べられないという特性が考慮されたと思われます。 動物性プランクトンが多く
>居てしっかりと活躍できれば、植物性プランクトンが増えすぎず、湖などの
>透明度が向上するのですが、霞ヶ浦は、その仕組みが働きにくいのです。
>
>植物性プランクトンが多すぎ、動物性プランクトンが少なければ、これを
>餌とする魚類も豊富とならず、こうした、湖の栄養バランスの変化が、
>漁獲量を昭和53年(1978)の約一万七千トンをピークに減らしてきた
>一因かもしれません。 これには、 他の諸々の要因も加わっていると思われま
>すが、何せ、ここ数年は、そのピーク年の何と一割程度に止まっているというの
>ですから、事態は深刻です。
>
>また、湖が広いため、同じ水が平均二百日ほど滞留することも、淀みを
>生み、水質を悪くしますし、浅いことも有機物などが暗い、従って
>光合成の起きにくい深みに沈んで行かない状態を保ちます。 そして、
>この浅さは、風が湖底の泥を巻き上げることを引き起こし、沈んだ栄養分を
>上に戻してしまうのです。 
>
>かくて、茨城県による特別措置は霞ヶ浦の特性をふまえて導入されましたが、
>似たような特性は他の湖沼にもあります。 そこで、これを追っかけるように、
>国の方も更なる立法を進めました。 それで出来たのが、湖沼水質保全特別
>措置法で、昭和59年(1984)に水質汚濁防止法の特別法として制定されました。
>これにより、指定された湖沼では、生活系や農林水産系などの排出水についても
>規制などの対策が講じられることとなり、霞ヶ浦もその対象となったのです。
>
>
>畜産分野に見る排水対策の例
>
>以上のような法令で、強い排水対策が講じられることになった典型的な分野に
>畜産があります。 霞ヶ浦流域には29万頭の豚が飼われ、3万頭の牛が居ると
>言われます。 屎尿等の排出物で計算すると、豚が人の十倍、牛は人の二十倍に
>相当すると言いますから、人口に換算すれば、それぞれ290万人と60万人に
>当たることになります。 有機的な排出水の視点からは、流域の全人口は
>約450万にも上ることになります。そこで、それぞれ、一定規模以上の畜産
>事業場に、家畜の排泄物を放流せず、貯め、地下浸透を防ぎ、ばっ気に務め、
>その上で、農地還元することが基本とされることになりました。 小規模畜産の
>課題は残るものの、大きな進歩です。
>
>
>面源対策など
>
>ただ、流域に広がる農耕地等から、雨水とともに流入してくる物質は
>対応のしようが無いところがあります。 それらには肥料や農薬も
>含まれていると思われますが、工場や事業場、家庭のように、排出地点を
>特定できないため、ノンポイントの排水問題とも、面源対策の問題と
>呼ばれています。 その性質上、規制型のアプローチは無理で、適性な
>施肥や散布に務めて貰うしかないようです。
>
>一方、湖で営まれて来た、鯉の養殖については、一時期、約一万面の
>網いけすが在るときも在りましたが、霞ヶ浦の水資源開発が進むに
>連れ、漸減して参りました。 その鯉への給餌が多量で、多くが
>鯉の口に入らず、湖底に沈み、有機物ですから水質悪化の原因に
>なると言われていましたが、適正量のコントロールと、浮くタイプの
>餌の導入などが工夫されて来たようです。 しかし、近年発生した
>鯉ヘルペスによる病変は、遂に、鯉養殖を全面的に断念せざるを得ない
>事態を引き起こし、法律に基づく県の措置という事で、終焉を見ました。
>
>鯉養殖も富栄養化の一因と言われ、その数量的な計測も行われていましたが、
>それが解消したことになるものの、私自身、茨城県奉職中に水資源開発に
>かかる補償に取り組んだだけに、養殖事業者の苦渋は、察するに余りある
>ものがあります。
>
>
>でも、霞ヶ浦は、あまり綺麗になっていません
>
>以上のように、水質問題の本質を捉えつつ、霞ヶ浦の特性をふまえた
>諸対策が、法令やそれに基づく事業によって、二十数年、営々と進められて
>来ましたが、その水質は根本的に改善されるには至っていません。 湖沼の
>水質を最もよく示すバロメーターと言われるCOD(化学的酸素需要量)は、
>変遷があるものの、環境基準をかなり上回っており、富栄養化に効く窒素や
>リンも同様の状態にあります。
>
>西浦の常陸利根川への流出口に近い所の両岸に、水泳に適したところが
>あると発表されており、遠泳大会が開かれておりますが、かつての賑わいを
>見せた海水(湖水)浴場の姿とは昔日の感があります。
>
>ここで、ひとこと触れておきますが、あまり変わらない水質状況について、
>常陸利根川が利根川本川に合流する地点にある常陸川水門を普段閉じている
>からだとする主張があります。 この水門を、常時開けておけば、水の
>出入りが起きて、河川や湖沼の浄化が図られるとの考えのようですが、
>実は、この水門を通常時閉めるようになったのは昭和50年(1975)からで、
>アオコの大発生による異常な水質の悪化は、それより前の昭和48年(1973)に
>既に起きているのです。 また、那珂川河口付近に位置する涸沼は、水門もなく、
>海水が潮の干満により自由に出入りする汽水湖ですが、富栄養化は進んで
>おります。 
>
>更に、常陸川水門を通常閉じることにより、海に近い利根川下流からの塩水の
>遡上が止められ、長年泣かされてきた周辺の塩害が無くなり、農耕が安定
>するようになったことを忘れてはなりません。 加えて、霞ヶ浦の淡水化は、
>上水道や工業用水の安定供給を、周辺地域のみならず、千葉県や東京都まで
>可能にしています。また、霞ヶ浦を水源とする農業用水は、かつて水不足が
>しばしば顕在化した茨城県中西部の灌漑を実現しました。 それに、この
>水門には、利根川からの逆流を防ぐという洪水防止効果も大きいものがあり
>ます。 と言うことで、ここは、やはり理解を得たいところです。
>
>
>では、どんな方法が外にあるのでしょう?
>
>これについては、事業化されているもので言えば、霞ヶ浦導水があります。
>それは、霞ヶ浦を、水甕として捉え直し、利根川や那珂川の流況との比較を
>して、例えば、那珂川の水が豊富なときに、これを霞ヶ浦に送り、流し込む
>ことにより、その水質の改善に資するとともに、水利用を可能にし、那珂川の
>水が少ないときは、霞ヶ浦の水を逆送して、那珂川の水不足に役立てるという
>ものです。 利根川の水の活用や途中の涸沼の浄化も考えられていますから、
>実際の計画はもっと複雑ですが、基本的な仕組みはそう言うものでして、今、
>トンネルが掘られているところです。 くみ上げや送水の機能を果たす
>ポンプも据え付けられて完成するのは、平成22年(2010)とされています。
>水需要の変化で、規模は縮小されたものの、浄化効果始め、大いに期待される
>ところです。
>
>そう言えば、汚れた隅田川に、荒川を通して、利根川の水を大量に流し込む
>事により、その浄化が大きく前進したことは記憶に新しい所ですね。
>
>
>汚濁が長年溜まり、ヘドロとなり、底質に染みこんでいると言う見方
>
>東京の区部や大阪市のように下水道が百%普及したところでも、小河川や
>運河の水は黒く汚れたままで、とても清流復活とは参りません。 これに
>ついては、長年の汚れが溜まりに溜まって、もうどうしようも無いからだと
>言う見方をする人がいます。
>
>これに対し、近年、EM菌という好気性・中性・嫌気性の多種の細菌を適切に
>組み合わせたものを、液状にして投入したり、元気玉という土と混ぜたものに
>して、投げ込むという試みが、大阪市内の道頓堀などで三年ほど継続して行われ、
>相応の成果を上げていると言う報告があります。 道頓堀の事例は主体が漁協で
>ボランティアの人々が支援し、テレビでも取り上げられました。 他の水域でも
>同様な取り組みが行われているとのことです。
>
>これは、微生物の作用により、底質を改善し、水を綺麗にする効果を確かに
>もたらしたようですが、大変な労力と費用のかかる取り組みですし、更に継続し
>ないと効果が持続されないという課題があるようです。 つまり、菌の浄化作用
>を活用するのですが、それを契機に自然自体の浄化作用が活性化し、持続してい
>くと言うところまで行かないようなのです。 
>
>まして、霞ヶ浦のような大きな湖が対象となると、尋常なことではありません。
>
>微生物の活用は、有用、有効な事は確かなようですが、自然の持続的な作用が
>生まれ、拡大発展していくことこそ不可欠と思われ、更なる研究と実証の課題が
>残っているように思います。
>
>
>水生植物の再生と活用
>
>他方、霞ヶ浦を始めとして、ヘドロをそのまま除去する事も行われており、
>それを肥料として活用している事例もあるようですが、逆にヘドロを
>巻き上げたり、拡散させる恐れもあり、大規模や広域に行うことは
>困難でしょう。
>
>そこで、富栄養化の悪循環を良循環に切り替えようと、水生植物の再生と
>活用が検討され、取り組みが始まっています。 霞ヶ浦環境科学センタへーの
>近くでも、その実験箇所があり、見て参りました。 川尻川という西浦に
>流入する川の河口を、流れる方向に沿って、大きく石積みで囲い、その中で、
>流入する水が含む有機物を沈降させながら、それらが除去された水だけ湖に
>入るように仕掛け、湖岸や石積みにヨシ(アシ 芦とも言う)を植えて、
>あるいは自生を促し、有機物や窒素・リンを栄養分として、これらの植物に
>吸収させようという試みです。ヨシが繁茂すれば、動物性プランクトンの
>格好のすみかとなり、植物性プランクトンをどんどん食べてくれると言う
>効果も期待しているようです。
>
>今後の推移と成果の程を注視しようと思いますが、うまく行けば、一つの
>道が開けると言う感じがします。
>
>
>事態は複雑で、予防措置が大事です
>
>霞ヶ浦だけを見ても、起きている現象や、対策とその効果も相互に
>絡み合って、複雑です。 まだまだ、良く分からないことが、いっぱい
>あるようです。
>
>例えば、昭和48年(1973)の大発生以来、ずっと悩まされてきた
>アオコは、90年代に入ると、夏の北浦以外、目立たなくなった
>と申します。 また、最近は臭いもあまりし無くなったとも聞きました。
>さりとて、霞ヶ浦の水質や富栄養の状態が顕著に改善されたわけではなく、
>汚れていることに変わりはありません。 また、最近は糸のような藍藻類が
>多発するようになっていますが、こうした変化の原因は実は良く分からない
>のです。
>
>これは、近年の学問で、複雑系として捉えられる現象に当たるのかも
>しれません。 デカルト以来の要素還元主義という近代の合理的思考に
>合わない事がどんどん指摘されているそうですが、現象を結果と見て、
>その原因たる要素を見いだすと言うアプローチにはもはや限界があるようです。
>
>こういうときは、人間の本能的なところに立ち返り、安全サイドに立って
>考え、対応すべきと言われます。 いわゆる予防措置の原則です。
>疑わしきときは、解明をする前に、まず手を打つと言うことです。
>
>霞ヶ浦は、規模と人口・産業の集積度からして、我が国の水質問題の
>代表例と言うぺきでしょう。 そこには、この原則が当てはまるように
>思います。
>
>
>ご一読、有り難うございました。
>
>_________________
>
>いばらき大使 仲津真治
>
>取手第九合唱団
>http://www.geocities.jp/tonegawaichirou/dai9.html
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>楽しい読み物が充実していきます。
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>
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>_______________________________________

長岡の集い:米百俵の精神が生きる
  Date: 2006-08-14 (Mon)

さて、この程、機会がありまして、在日外交団や経済界などの
方々と、地方にて、地元の方々ともども、交流し、意見を交換し、
親睦を深める場に参加することが出来ました。 今回はこのこと
について、幾つか記したいと存じます。


ワールドパートナーシップフォーラム

この集いは、標題のように、ワールドパートナーシップフォーラム(WPF)
と呼ばれ、平成4年度に第1回を開催して以来、東京以外の各地にて
開かれて来たものです。 今回は新潟県の長岡市にて第32回のフォーラム
として開催されました。 日程は2泊3日に及びました。

この主旨は、その有益性の視点から簡潔に記しますと、普段は東京にいる各国の
大使・公使やその夫人の皆さんに、、日本の地方に出かけて貰い、そこに
我が国の経済界の人々や地元の各界の人も参加、交流の場を持ち、意見を
交わすとともに、地域の産業、文化、伝統、歴史などを良く理解してもらおう
と言うところにあるようです。 そこには、日本の国際関係や外交に地域の幅と
厚みをもたらすことも期待されています。 かくして、このフォーラムは、
外務省の参画と協力を得ています。


長岡の集い:米百俵の精神が生きる

まず、WPFの実行委員会、大学の先生、各国大使など7名、経済界もほぼ
同数の人々等が参加するシンポジウムが開かれました。 大きな会場はほぼ満席、
二百名は越したでしょうか。 大学の先生による、優れた問題提起型の「世界の
中の日本」と題する基調講演があり、それを受けて、各大公使や日本側の経済界
の人々が、それぞれの論を展開しました。私も、その中に加えて頂きましたが、
議論は多岐に亘り、日中間で懸案となっていることも論じられるなど、しっかり
した議論となり、盛り上がったと思います。

しかし、今回の圧巻は、地元長岡市側の発案による、若人の参加でした。
昼の休憩を挟んだ午後、中高大の学生約十五名ほどが、在日外交団の大公使と
向かい合い、意見が交わされ、質疑応答が行われたのです。 これは、戊辰の役
の直後、敗戦で困窮した長岡藩に近隣の友藩から、見るに見かねて、米百俵が
贈られてきたのを受けて、時の藩の大参事の小林虎三郎が、分配せよとの大多数
の意見を説得し、押さえて、「国漢学校」という教育の場を設けた故事に
由来するものと申します。 山本有三の戯曲で知られるようになった、いわゆる
米百俵の物語ですね。

青少年の教育を重視する長岡の、この伝統は、かくして、今回のフォーラムに
活かされました。 この若人の参加するディスカッションが始まる前、会場では
米百俵の映画のハイライトの場面が英語のサブタイトル付きで上映され、
外交団の人々の理解もあらためて得られていましたから、会場の雰囲気の
醸成は十分なものがありました。 

もっとも、男女15名ほどの若人は代表であって、質問事項や論点は、会場に
来ていた数多くの青少年が参加した場で、事前にもまれ、まとめられたものです。
従って、それらがやや、共通型の一般的なものになるのは理解できるところ
でしたが、各国大公使が真摯に耳を傾け、真剣に答えていたのは、とても印象的
でした。 そのやり取りに、貫かれたテーマ・問題意識の重点は、やはり教育
でした。


長岡の歴史・市制百周年

本年は、長岡市制百周年と申します。 明治の後半に市制になったわけですから、
やはり、歴史と伝統があるのみならず、戊辰の役に敗れたとはいえ、往時から
大きな町であったことが推察されます。

外交団ともども、お城の形をした市立の郷土史料館を訪ねますと、そこに「やはり」
と思うことが記されています。 幕末から明治にかけて起きた戦役で、長岡藩は
和平交渉を持つも決裂、結局、幕府側に立って戦いますが、激戦三ヶ月、長岡城
などを巡り、一進一退の攻防が繰り広げられました。 この戦の説明は、官軍の
ことをそう表記せず、西軍と書いています。 後に起きた会津の戦いでも
同じく、西軍と記されていました。 新政府軍との表記もありますが、今に至る
も官軍と言う言い方はされていません。 時代の経過や世代の交代で薄まって
いるというものの、人々の心情が察しられるところです。

更に、この記念館の展示は学ぶところが多いものがありました。 特に
驚いたのは、アメリカのリチャード・ガットリングが南北戦争の最中、
発明した機関砲が展示されていたことです。 これは、回転する六門の砲が
次から次と銃弾を撃ち出せる新型砲で、今日のバルカン砲と同じ原理に
よっています。 何と、長岡藩の河井継之介がこれを一門五千両の大金を払って
二門入手、自ら、押し寄せる敵に向け乱射したと言われます。 それにしても
不思議なのは、この頃から、ガトリング砲という機関銃の存在か知られ、国内
でも使用されているのに、約四十年後の日露戦争では、ロシア軍の機関銃の
連射に圧倒され、日本軍が多数戦死、なすすべが無かったと言われることです。
なぜ、そういうことになったのか、事情に通じた方に是非、教えて頂きたいと
存じます。


戦後と震災からの復興・大合併

戊辰の役で焼けた長岡の街は、昭和20年(1945)8月1日の米軍の空襲で
再び、焼け野原となります。 その翌々年、戦災復興の願いを込めて始め
られたのが、花火大会でした。 信濃川の広大な河川敷で繰り広げられる
花火大会は、画家山下清も描き、街の復興とともに年々大規模となり、何と
直径1メートルに近い三尺玉までが打ち上げられるようになって、国内のみならず、
海外でも有名となりました。

ところが、平成16年10月、中越地震がこの地方を襲い、大きな犠牲と
破壊がもたらしました。 それから2年近い日が経つとはいえ、まだ、
仮設住宅が国営越後丘陵公園に多数残り、山古志村の錦鯉の養殖池が市街地に
近い農地に、仮設で再現されているなど、震災復興はまだまだ途上にあります。
ても、その願いは強まり、昨年来、復興を促進し、元気づけようと花火は
一段と華やかさを増して来ているようです。 

特に、鑑賞する側の前面の上空に幅広く、華麗にうち上がるフェニックスの
花火は、スクリーンとも呼ばれ、眼前が色とりどりの立体画像で埋め尽くされる
印象を与えます。 これと、ナイヤガラ瀑布と言われる仕掛け花火、その上に
うち上がる直径約六百メートルの三尺玉が、長岡の花火を世界一と言わせる
主要素なのでしょうか。 何せ、各国外交団がそろった席で、市長が
「世界一と思われますか」と同意を求め、満場の拍手でOKになりましたから、
これも今回のフォーラムのもたらした、一つの成果でしょう。

さらに、ここ2年ほどの間に、長岡と周辺と併せた十個の市町村が二段階で
大合併、大きな長岡市となりました。 震災とそこからの復興を進めながらの
合併ですから、尋常ならざる事であったと察しられますが、遂に達成されました。
長岡の市域は、寺泊まで広がったため、何と日本海に面する都市になったのです。
私どもと話を交わす市職員も、元の職場は区々の様ですから、次第に融合も
進んでいると見受けられます。

市制百周年など、それやこれやで、今年の花火は通常の日程に1日追加、それは
国際大会となりました。 アメリカ、中国、韓国、そして日本の四ヶ国の競演と
なったのです。 みんな、色の組み合わせも見事で美しいものでした。


夜空に耀くシンフォニー

確かに、長岡の花火は三尺玉などの巨大さとスクリーンの様な圧倒的な
画面構成、そして二時間近い連発で、大歓声と満場の拍手を引き起こしますが、
初めて見る外国の花火には、これとは、また違う味わいとストーリー性を持つ
ものがありました。

まず、アメリカは、元イタリア発祥でニューヨークからやってきた花火師の
一行が、ロックンロールの音楽と組み合わせたものを展開しました。 テンポ
速く、次々に上がる大空の華を見上げながら、激しいリズムで踊り出す雰囲気に
なりましたね。

次は、中国は上海からやってきたチームですが、中国版のロミオとジュリ
エットの物語の音楽を流し、それに合わせて、花火を上げ、流していくもの
でした。

すごかったのは韓国でした。 使う音楽は韓国のものに限らず、洋の東西に
渡り、火山の登山電車のコマーシャルソングである「フニクリ・フニクラ」が
出てきたかと思えば、最後は驚くべし、ベートーベンの第九交響曲でした。 
第四楽章の終わりに出てくる速い「プレスティッシモ」が流れ、それに合わせて、
どんどんと花火がうち上がるのです。 実にうまく合っていました。 音楽と
花火の共演であり、新たな文化の地平を開拓したと言う印象を持ちましたね。 
まさに、夜空に耀くシンフォニーでした。


諸々の見学、蝉の声、そしてカラオケ

また、この三日間をフルに活用し、最新鋭の工場、伝統の笹団子の事業場、
博物館、記念館など、いろんな所を見学しました。 外交団やそのご夫人の皆さ
んには、暑い最中でしたが、いろいろ得るところがあったようです。 同時に、
蝉の鳴き声は凄まじく、蝉時雨の話となり、そして、秋の虫の音に話題が
及びました。 すると、ある夫人は、フランス人も「秋の虫の奏でる音楽」に
感ずるものがあり、日本人と同じだと語っていました。 興味深いお話ですが、
これは、もう少し、深めた話をした方が良さそうですね。 その機会があればと
思います。

また、里山では、遠方ですが、無人ヘリコプターを使った肥料の散布が
行われていました。それに気付いた、さる外交官夫人と、この進んだ
農法について話すうち、この農業用ヘリが中国に輸出され、軍事転用の
恐れが出ていることが話題となりました。 さすがと思いましたね。
特派員を兼ねた人でしたが、情報に通じていました。

ところで話は変わりますが、日本は友好と親善に役立つ、素晴らしい装置と
ノウハウをえ出したものです。 カラオケです。 今や、全世界に普及したと
言いますから大したものです。

今回の長岡のカラオケでは、大公使や夫人方も参加しました。この人々も、
カラオケ文化を享受しているようでした。 一つ、確認できたことは、国際的に
歌う場となると、英語がやはり優位と言うことでした。 英語圏の人は
一部を除き、いませんでしたが、国際的共通語はやはり英語であり、それは、
歌の世界も同じでした。 英語の歌は良く知られているのです。 
とりわけ、アメリカ発のものが重きをなします。

さりながら、ポーランド大使とともに、その母国の曲「森へ行きましょう」を
歌い、ドイツ大使とウェルナーの「野ぱら」を唱い、さらにロシア公使と
「トロイカ」を重唱したのは、二度と味わえない体験となったような気がします。
音楽文化の共通性、親睦性、友好性に納得が行きました。


この機会に、御世話になった方々に、あらためて感謝致します。

以上、ご笑覧有りがとうございました。

_________________

いばらき大使 仲津真治

取手第九合唱団
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映画「日本沈没」と地球のプレート理論
  Date: 2006-07-31 (Mon)

いばらき大使の仲津真治です。 長い梅雨もどうやら明けた
ようですが、大きな災害をもたらした事は深刻な事実です。
被災地・被災者の皆様に心からお見舞い申し上げますとともに、
早期の復旧と復興を念じております。 

さて、この度、フィクションながら、これよりはるかに
スケールの大きい、災害の域を大きく超えた「日本沈没」と
いう映画を鑑賞しました。

実は、同名の小松左京の原作が世に出たのが33年前(昭和48年
1973 石油ショックの年)で、直ぐに映画化されています。 原作は
四百万部売れ、映画も空前のヒットを打ったという、その映画の
リメイク版(再製作)です。

今回の映画は、この間の時代の変化と科学理論やノウハウの進展を
反映した、新時代の作品というものに仕上がっておりますので、
その印象を中心に災害対策との関連などにふれたいと思います。


始めに、要約を簡単に記します。 ご関心があるが御多忙であれば、
ここだけ、お読み頂ければ幸いです。

日本列島に火山の爆発や地震が頻発し、明らかな異変が起き始めます。
それは、最新のプレートテクトニクスの理論や観測結果からすれば、
日本海溝で、陸側のプレートに潜り込んでいる太平洋プレートの
先端に貯まって出来ている巨大なメガリスという地塊が崩壊し、より深い
マントルに沈み、そのため、プレートの動きが急に速くなり、陸側の
プレートも速く引きずり込まれるようになり、その上に乗っている
日本列島が沈下し始めたと推定されるというのです。

緊急対策が取られ、諸外国の協力も得るべく、果敢な努力が始まりますが、
犠牲者は続出、遂に三千万人を越すに至ります。 一方、各国の協力を得て、
海外への避難も相次ぎ、三千万人以上に達します。 国内では、更に、
避難や対策が続き、様々なことが起き、被害がどんどん発生します。 

最後の対策手段として、陸側のプレートを、沈む太平洋プレートとの境界面から
遮断すべく、日本海溝の海底下の深いところに存在する当該箇所を爆破する
事が立案されます。 それは各国の支援も得て、計画、実行され、成功に至り
ます。列島の沈降は止まり、地震や火山噴火などの現象が収まり、危機管理
担当大臣の哀悼と感謝の挨拶が行われます。


さて、ここから本文に入ります。


「日本沈没」などと言うが、本当に起きるのか?

映画は、「日本列島が沈下して大きく海没すること」があり得ない
ことではないと言う仮説を前提として作られています。 そのこと
の根拠に、プレートテクトニクス(plate tectonics)の最新理論を
援用しています。

プレートテクトニクスとは、地球の表面が比較的薄い、十数枚の大きな
プレートで覆われていて、それが一年に1cm〜10cm程という
速度でゆっくり動いているとする考え方です。 このプレートは、
最上層の地殻と、その下の堅めのマントル上部を合わせた、厚さ約百km
ほどの地層です。 この下は、マントルの下部で同じく岩石から成り
ますが、柔らかめで、本来、固体なのに高温のため、液状化しており、
大きな対流を引き起こしています。 これをマントル対流と言います。 
このマントル対流が、そもそもプレートを動かす原動力となっていると
されています。

ちなみに、このマントルは深さ約二千九百km程の層で、その下は
核(コア)であり、地球の中心部に至ります。 この核を入れた、地球の
半径、つまり表面からの深さは約六千四百kmです。 そして、この核は、
主に鉄で出来ていて、その外側が液体、内側が固体に分かれており、
液体部分が年約十km程の速さで流れ、地球全体を巨大な磁石にする
もととなっていると申します。 


プレートテクトニクスに至る仮説の発展

さて、プレートは、本当に緩慢な動きをしながらも、相互にぶつかり、
離れ、潜り込んだりしています。 そうした、衝突、離反、潜り込み、
その反発などが、火山を生み、地震を引き起こしている分けです。

この考え方は、ドイツのヴェーゲナー(1880〜1930)が最初に唱えた
大陸移動説から発展してきたものです。 約46億年という地球の
歴史の中で、出来たての熱い玉から冷えて行くに従い、長く雨が降り、
それが貯まって大海をつくりました。 約三億年ほど前には、この巨大な
海に囲まれ、ただ一つの大きな大陸が地表面に形成されていたと言われます。
これはパンゲア大陸と呼ばれていますが、やがて分裂し、移動を始め、
長い年月をかけて、今日のような六大陸になって行きました。

その証拠に、例えば、アフリカの西海岸と南米の東海岸はそっくりの
形をしていて、両岸の地質はほとんど同じと申します。 私も、
子供の頃、世界地図を見ながら、「両大陸の海岸線が良く似ている。
面白いな」と思った記憶があります。 

この大陸移動説は、人々に驚愕をもたらしましたが、馬鹿げた話と
する考え方も多く、また移動の原因やメカニズムなどを巡って反論が
出されました。 その過程で、本当は海の底が動いているのだという
説が唱えられ、海洋底移動説と言われました。 大陸はその上に
乗っかって動いているのだと言うわけです。 この説は、海底の
模式図を見ると良く分かります。 典型例は、大西洋で、ちょうど、
その真ん中付近に、延々と南北方向に大きな裂け目があります。 
この裂け目から、地殻の底が顔を出し、東と西へ分かれて動いて行って
いるのです。 かくして、東に動いたのがアフリカやユーラシアであり、
西へ動いたのが南北アメリカと言うことになり、その海岸線の類似性に
繋がります。 こうした大きな裂け目の両側には、海嶺が出来、中には、
火山島になっているものもあるようです。

その後の地球観測の進展や諸発見は、これらの諸説を今日のプレートテク
トニクスの学説へと発展させて参ります。

 
プレートテクトニクスで、更に分かってきたこと

さて、小松左京の原作が出た頃には、プレートテクトニクスの考え方が既に
登場し、広範に支持されるようになっていたようですが、その後、
今日に至るまでに、更なる進展を見て参りました。 それには、特に、
地震波トモグラフィーという手法が貢献し、スーパーコンビュターの長足の
進歩がその膨大なデータ解析を可能にしました。 映画でも、有名な
地球シミュレーターが登場します。 

このうち、地震波トモグラフィーとは、X線や電磁場による人体の断層撮影の
ように、自然に起きる地震の波の伝わり方を良く調べて、地球の内部構造を
明らかにする方法です。 これによって、多くの新しい知見が得られて参り
ました。

私も災害対策に奉職した体験などから、かなり以前にプレートテクトニクスの
事は少し知るところとなっていましたが、この映画では、もっと新しい
用語とそれによって示される現象のことが紹介されていて、自らの勉強の
足りなさを痛感した次第です。

一つは、メガリスと言うものです。 これは何かというと、一つのプレートが
他のプレートに潜り込んでいくと、やがて、より深い下のマントルに突き
あたり、貯まります。 そこに上下に分かれるマントルの境界面があるよう
なのですが、この貯まったプレートの事をメガリス(元は、有史以前に形成され、
現代にも残る遺跡のこと)と呼ぶのだそうです。 この境界面は深い所にあって、
日本海溝の場合、海側の太平洋プレートは、陸側の北アメリカプレートや
ユーラシアプレートに潜り込み、約六百km辺りで、このメガリスを形成して
いると申します。

だが、このメガリスは無限に貯まり続けるのではなく、巨大化すると、
自重で、上下マントルの境界面を突き破り、さらに深く沈んでいく事が
知られるようになりました。 このメガリスの崩壊が起きますと、潜り込みの
先端の障害が無くなるようなものですから、プレートの動きが速くなり、
上に被さっている陸側のプレートも引きずられて沈降するのを速めます。 
映画では、この現象が深い日本海溝のはるか下で起き、日本列島の沈下が
発生すると言うわけです。

もう一つ、これに加わるのが、デラミネーションと言う現象です。 メガリス
の崩壊は、その上にある地殻の下の部分を剥離させるので、これを薄くさせ、
マントル上に浮く地殻の浮力を小さくし、より沈ませると言うのです。

かくして、これら、メガリスの崩壊とデラミネーションの発生は、陸の沈下を
引き起こすわけですが、プレートの潜り込みは地球上、多くの箇所で生じて
いますから、そう言う所では、陸の沈下・潜没が、これまでも起きてきて
いても可笑しくありません。 その例を次に記しましょう。


日本沈没は荒唐無稽でないが、時間の単位が異なる・・・・・

日本列島の付近では、日本海の生成がそのケースで、約二千年前に、
地殻の大沈下が起き、海が形成され、日本の陸地は日本列島となって
大陸から切り離されたと言います。 このとき、列島は糸魚川・静岡構造線
(フォッサ・マグナ)と言われる線で東と西に分かれるように大陸から
分離、大きく湾曲の形が異なる部分から成る列島となりました。

かくして、原作や映画が言う「日本沈没」は全くあり得ないことでは
無いのですが、かつての日本海の誕生・日本列島の形成が百万年ほど
かかって起きたと言われるように、私どもの生活時間の単位で起きること
ではありません。 何万年から何百万年というような地質学的時間の
流れが必要なのです。 現代人と言われるクロマニヨン人の発生から
今日まで、約二十万年ほど立っていると今の学説は言いますが、
農業の形成からは八千年程ですし、記録が残る最初の文明の誕生からは
たかだか五千年です。 まして、人生は長生きしても百年少し、地球に
ゆっくり起きる大きな変化から見れば、とても短い時間なのです。


しかし、映画では、たった一年で日本列島が大きく海没すると言う

かくして、この映画が組み立てている物語は、もっともらしく、最新の
プレートテクトニクス理論を援用しながらも完全にフィクションなのですが、
それをフィクションでないように仕立てる、もう一つの仮説を持ち込み、
一年で列島が沈没すると言う話にしてあります。 その仮説は、それこそ
徹底したフィクションと思われますので、ここには記しません。

映画では、北海道など各地で起きる地震の多発や火山の噴火から、大いなる
異常が迫っているという印象を与え、急遽の対策の一環として、総理が
政府専用機で中国へ飛ぶシーンが出てきます。 しかし、続発する異常現象は
九州でも発生、阿蘇始め火山が大爆発し、専用機はそれにより、墜落してしま
います。 石坂浩二演ずる山本総理は、心優しいが決断力有る人として描かれて
いますが、これで亡くなります。

危機管理担当大臣に総理から任ぜられていたのは、大地真央演ずる鷹森ですが、
國村隼演ずる官房長官の野崎と対立しながらも、対策に奔走し、決断を下して
行きます。

鷹森のかつての夫で、地球科学博士の田所(豊川悦司)は、直感型の理論派で
学界では異端の扱いを受けながらも、地球シミュレーターが計算した結果を
持って、データの裏付けがあるとして、一年弱で日本列島が沈没すると強硬に
主張、行動を起こし、対策を打ち出していきます。

野崎官房長官は、既に起こり始めた異変を認識して、この田所博士の主張を入れ、
緊急事態を国民に対し宣言し、海外への秩序有る避難を呼びかけますが、
パニックを起こさせまいと、一年のところを五年で列島沈没と発表します。
フィクションながら、「一部真実でない、こうした政府発表」には 情報公開と、
これをもとに適正な取り組み・対応を行うべしとの考え方からすれば、
疑問が感じられるところです。

更に、次から次と異変は拡大、各地に大地震、津波、火山の噴煙や
火砕流が襲い、火災が多く発生し、次いで、地盤の沈下、海水の侵入が
起きて参ります。 京都の町の半分が海となり、清水寺が傾いている
映像は特に、強烈な印象を与えます。

この間、飛行機や船舶はフル稼働、各国の協力もあり、短期間ながら、
三千万を越す国民が海外に避難しますが、犠牲者も三千万余に達し、
残り約六千万が、国内に取り残され、なお海面上にある高地や、
特に何も起きていないところに避難したり、残留したりします。
国民に格差が生じていることを暗示しているようです。


しかし、冷静な国民と秩序だった行動が感銘を与える

フィクションとはいえ、これほどの危機に襲われながら、概して、
日本人が比較的冷静に移動したり、笑いや交流を忘れない避難生活を
営んでいる様子が描かれます。 阿鼻叫喚のような状況は出てこず、集団で
異様な行動を取ることもなく、発狂する人々も出ません。 映画ははそう描いて
いるのですが、本当にそうなのか?と言う感じもします。 ただ、これは、
誰しも、災害列島日本では頻度多く災害を体験したり。見聞していることや、
日本人が比較的運命を受け入れやすく、一旦諦観に達すると、次の行動に移って
いける国民性を反映した描き方なのしれません。 こうしたことは、終戦時の
日本人の意識や行動にかなり特徴的に現れたと聞きます。

また、陸海空の各自衛隊は、実に沈着な行動を取り、災害派遣の実を上げて
いきます。多種多様な艦船、航空機、部隊が登場し、デモンストレーションの
観すらあります。 実際、防衛庁をトップに自衛隊は、この映画には大変な
協力ぶりであったようですし、内閣府の防災部門や国土交通省始め各省庁も、
撮影協力しています。 かなりの大学や自治体も同様の協力をしています。

自衛隊と並んで特筆すべきは、東京消防庁です。 そのレスキュー部隊に
フィクションながら女性隊員が一人おり、阪神・淡路大震災で両親を亡くし、
意を決してこの道に入ったという阿部玲子(柴咲 コウ)がヒロインとして
活躍します。 もう一つの特筆される機関は、「海洋研究開発機構」です。

そこに、小さい頃から海に憧れ、深海潜水艇「わだつみ」(実名しんかい)の
操船者である青年の小野寺俊夫(草なぎ 剛)が働いています。 彼はヒーロー
であり、本映画最初の災害である駿河湾地震で、救助に来た玲子に助けられ、
やがて、二人は激しい恋に落ちます。


地中爆破の試み

このほか、この映画では様々なドラマが展開し、いろんなシーンが
登場しますが、クライマックスは、田所博士による、列島沈没防止の
作戦です。 これは原作にも無く、前作品にも無かった場面で、プレート
テクトニクスの理論の進歩を活かした新シナリオと言えなくもありません。

その主張は、列島沈没阻止の方法があるといい、そのアイデアは、急速に
潜り込み、日本列島を道連れにしている太平洋プレートに対し、その上に
乗っかっている列島側のプレートを遮断し、引きずり込まれるのを止めると
いうものです。 そのためには、日本海溝の底深く、深海探索船から、
巨大な杭を打ち込み、その中に、N2と言う高性能爆薬を入れ、それを
連続して爆発させる必要があり、それによって、この遮断を一挙に達成
出来ると言うわけです。 核兵器でない、そんな凄まじい爆発物があるとは
聞いたことがありませんから、これは完全にフィクションでしょうが、
そこは映画の映画たる所以でしょう。

かくして、物語では、日本の協力依頼により、各国から、深海探索船派遣
され、房総半島沖に展開します。 そして、それぞれが海溝深く杭を打ち込
みます。

だが、日本の深海探索船では、深海杭が打ち込み終わっているものの、N2の
投入が出来ていませんでした。 実は、結城達也(及川光博が演じる)と言う
草gのパートナーが、わだつみ6500と言う深海艇を使って、その投入を
試みるのですが、杭の入った海底付近で火山性の泥流に巻き込まれ、船もろとも
破壊され、死亡していたのです。 草なぎは、何と、わだつみ2000と
言う、既に退役し、見学用の展示物となっていた深海艇に乗り込み、その任を
引き受けようと申し出ます。 海と生物が好きだった青年は、様々な危機体験を
し、玲子と恋をするうち、人が成長していったのです。

名前の通り、約二千メートルしか潜れない艇で、もっと深く潜り、海底に
落ちてしまっていたN2を再発見し、杭の中に投入しようという分けですが、
この危険極まりない仕事に、草なぎは果敢に挑戦、困難な状況の中、遂にこれを
達成します。 しかし、深く潜りすぎた艇は、やはり自壊し、草なぎは死んでし
まいます。

だが、この投入で爆破は成功、次から次と他の爆破も引き起こされ、何と、
プレートの遮断は成功するのです。 かくして、日本列島の乗ったプレートは、
それ以上、引き込まれることはなくなり、あれほど、各地で多発した地震や
火山の噴火が止まります。 日本は、すんでの所で、全面海没に至ることから
救われました。

富士山観測所の福原教授(柄本 明)も、今にも大爆発しそうな富士山の
観測と監視を続けていましたが、山が急に沈静化し、「良かった」と感嘆の
声を上げます。 富士山が噴火寸前で火山活動を止め、残る辺りに、日本の
象徴と言うべき山に寄せる日本人の心情が良く現れていますね。


爆破への疑問

さて、映画では、列島沈没という空前の大危機に直面し、「このほかに方法が
ない」として、この高性能爆薬による深海の底中の爆破に踏み切る分けですが、
こうした対策には、かなりの疑問があります。 実際、列島沈没などと言う
未曾有の現象が短期間に起きることはないものの、例えば、火山の爆発が
迫っているときに、貯まったマグマを、爆破によって別に逃がしてやり、
噴火を避けるというような災害対策が、果たして取れるでしょうか。

これまでにも、台風が接近してくると、その進路で水爆を爆発させ、台風を
消滅させるとか、陸に向かってこないようにする等というアイデアが
出されたこどあるようで、私も報道で読んだことがあります。 しかし、
こうしたことは、実行されたことがありません。

それは、一つは自然現象である災害に、人為による爆発などの方法で
立ち向かったとしたとき、どういう事が起き、広がり、それでどんな
被害や影響が出るか、とても読み切れないからです。返って、事態を
悪化させることも予想され、予測も付かないことを誘発する可能性だって
あるでしょう。

もう一つは、自然現象である災害は地球自体が引き起こしていることですから、
人間世界は被害を受ける側で、賠償等の責任の負いようが有りませんが、
そこに人為を加え、爆破などの対応をしたとき、それによって生ずる結果に
ついては、人間世界が責任を負うことになりましょう。 それは、そう言う
案を検討し、決定した者であり、実行した者と言うことになります。 それは
政府かも知れず、自治体もあり得ますし、災害の広域性から、国際機関も
外国政府もあり得るでしょう。

そう考えると、誰もそうした対策に現実的に取り組まないことが分かります。

私は、平成の初めの頃、国の災害対策に奉じておりましたが、当時、起きていた
災害に、「雲仙岳噴火災害」がありました。 大勢の人が大火砕流に巻き込まれ、
犠牲となったので、今も覚えておられる方が多いでしょう。 この災害では、
火山の噴火は収まらず、火砕流は何年にも渡って発生、土石流にも悩まされ
ました。 多種多分野の対策を講じたものの、陰鬱な日々が続きました。 
それは被災地には限りませんでした。 多くの人が苛立っていたと思われます。
 
その現れか、様々な電話が、私どもの非常災害対策本部にかかってきました。
その中に、「あの山にミサイルをぶち込んで、噴火を止めろ」というのが
ありました。一件に止まりません。何件も有りました。 私が出た電話も
あれば、他の人が出たのもありました。 もとより、そんなミサイルは有り
ませんし、そのような対応は絶対採れません。 穏やかにお話しして、お引き
取りいただきました。 まさに、人は様々、こういう声も出て来るのですが、出
来ない相談であることは、はっきりしています。

映画で描かれたことは、やはり映画の世界のお話と思います。


鷹森危機管理担当大臣の挨拶

映画の最後は、相当海没し、膨大な犠牲を出し、破壊の跡を残したものの、
なお、かなりの程度の存在を保った日本で、海上艦艇の上に設けられた
臨時の政府にて行われる、鷹森大臣の挨拶で締めくくられます。
いろんな対策と決断の中心に、彼女がいたからでしょう。

その挨拶は、夥しい犠牲者への哀悼と海外からの帰還への対応、今後の復興への
決意の表明を主としたものでしたが、深海艇で犠牲となりつつも、それ以上の
列島の沈没・破壊を防いだ、二人の青年操船者、結城達也と小野寺俊夫への
感謝への言葉が付言されました。 映画のもつドラマ性を感じましたね。

この挨拶には、それなりの理解が出来ますが、何千万の日本人の避難を受け入れ、
諸々の協力をしてくれた、国際機関を含む外国の人々や政府などへの御礼の
言葉は有りませんでした。 それは、やはり欲しかったところです。 映画で
あり、フィクションであるとはいえ、外国の人々も、日本にいる海外からの
人々も、この映画を見る可能性は十分有るからです。

以上、ご笑覧頂き、誠に有り難うございました。

_________________

いばらき大使 仲津真治

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原子燃料サイクルの今
  Date: 2006-07-14 (Fri)

さて、この程、日本の原子燃料のサイクルを形づくる中で、
大きな役割を果たしている「日本原燃」の事業場を見学
して参りましたので、このことについて記したいと思います。
素人の感想ですが、何かのご参考になればと存じます。

要点:お忙しい方は、ここを御覧下さい。

原子力は、他の燃料と違い、使用が終わると二酸化炭素などに
変わってしまい無くなるというものではありません。 ウランの
中のほとんどを占めるウラン238の一部が、原子炉内で
プルトニウムに変わって、次は使用できるようになるからです。 
これは、更に、その次と繰り返すことができるので、原子燃料の
サイクルは、とても大切なことなのです。

それを、全国の原子力発電所と組んで、円滑に進めるには、
大規模な施設と用地が必要です。 今から、21年前、青森県の
六ヶ所村が、その立地箇所として選ばれ、協定が結ばれました。

日本原燃という会社が、その事業を行うこととなり、順次、
施設の建設や運用が進められて来ました。 今では、ウランの
濃縮施設や放射性廃棄物の貯蔵保管施設が出来、次第に、大きく
なりつつありますし、使用済み燃料の再処理施設も、ほぼ
仕上がってきて、来年度から、操業を始める予定です。

課題はなお多くありますが、漸く、原子燃料のサイクルも、
この国で整いつつあります。 資源・エネルギーの状況は
一段と厳しくなり、二酸化炭素等による地球温暖化など、
環境問題の深刻化を考えれば、これは、とても大事なことと
言えるでしょう。

以上で要点を記し終え、次から本論に入ります。


青森県六ヶ所村

日本原燃は、電力各社を中心に民間企業が出資して出来ている
会社ですが、元の「日本原燃サービス」という会社の発足から
数えると、既に四分の一世紀と言う歳月が経ち、いま、事業が
本格化してきているところです。

その本社も事業場も、本州最北端の青森県の六ヶ所村と言うところに
あります。 鎌のような形をした「下北半島」の付け根の辺りで、
太平洋に面しています。 ここは、沖合を寒流が流れているせいか、
「やませ」という霧がよくかかり、真夏でも最高気温が25度〜26度
と言う冷涼な地域です。 私どもが訪れた日も7月の中旬に入っていると
いうのに、午後2時頃で17.6度と表示されていました。背広ネクタイ
をしていて、ちょうど良い感じで、クールビズはやや縁遠いところですね。

冬は長く極寒の地となります。 こうした気候のため、農耕にあまり
適さず、人口の希薄な広大な土地が広がる地域でした。では、どうして、
こにに日本原燃が立地したかというと、それには、ここの地域開発の
歴史を見なければなりません。


むつ小川原工業基地

日本が戦後の復興を成し遂げ、高度経済成長をひた走っていたころ、
この国の開発可能性を更に生み出し、活かそうと、新全国総合開発計画
(略称 新全総)と言う戦後二番目の国土開発計画が立てられました。昭和
44年(1969)の事です。 

その中で、青森県六ヶ所村の辺りは、広大な用地、港湾への適性、幾つかの
湖沼による水資源の豊富さなどに着目して、大規模工業基地の一つとして
計画されました。 その広さ、実に五千三百ヘクタール、明治の大合併で
六つの集落が一緒になって出来たという六ヶ所村の約五分の一を占める
大きさです。一大コンビナートをつくるため、用地が取得され、工業用水の
準備や港湾づくりも進められました。 しかし、結局、当初の計画は
挫折しました。

それは、昭和48年(1973)の石油ショックなどにより、日本経済が
大打撃を受け、構造転換を迫られ、資源・エネルギー多用型の工業開発が
終焉を迎えたからです。

だが、工業用地の利用転換は簡単には進みませんでした。 


原子燃料サイクルの拠点へ

他方、この国でも漸く進展し始めた原子力発電の円滑な推進のため
昭和55年(1980)に原子燃料サイクルを主たる使命とする原燃サービス
が出来、次いで、昭和59年(1984)、電力会社の集まりである電気事業
連合会が、むつ小川原の土地を適地として、原子燃料サイクル施設の立地を
青森県と六ヶ所村に申し入れました。 翌年、県と村が受け入れを回答、
ここに、むつ小川原工業基地の転換がスタートしました。 原燃サービスは
もう一つの会社と合併、日本原燃へと発展しました。

今日では、この基地の北部を占める尾駮沼(おぶちぬま)を囲む広大な用地に、
原子燃料サイクル施設が数多く立地、また増設されつつあり、また、その
西方には、原油の国家備蓄基地が建設、運用され、更に、液晶の大きな工場
など民間企業も進出、風力発電が多く行われるなど、その景観は一変
しつつあります。ただ、原子燃料サイクル施設の用地は、周囲を頑丈な
コンクリート製や鉄骨製の高い柱で一重二重と囲まれ、核ジャックやテロ
対策等の警戒が極めて厳重です。 広い余裕のある敷地とともに、通常の
工業基地とは違う概観を呈しています。
 
他方、日本原燃の社員だけでも二千名強と申しますから、人口約一万二千の
六ヶ所村で、地域の職場づくりに大きく貢献していることが分かります。
実際、作業班の人々の表示を見ると、六ヶ所村始め、地元の出身者が多い
ことが分かります。


サイクルの二本柱

原子燃料サイクルは、大きく分けて、ウランの濃縮と、使用済み燃料の
再処理から成り、後者と関連して、放射性廃棄物の貯蔵管理がある
とのことです。


ウランの濃縮

このうち、まず、濃縮から見ていきましょう。 原子核の分裂で生まれる
エネルギーは、主に、ウランのうち、ウラン235と言う核分裂しやすい
元素を燃料にして得られますが、これは、自然界に賦存する天然ウランの
わずか、0.7%しかありません。 残りの99.3%は、ほとんど分裂しない
ウラン238です。 地球が誕生して40億年経つと言いますが、その長い
時間の間に、ウラン235は自然に分裂してどんどん減っていったのに、
ウラン238は僅かづつしか分裂せず、多く残ってきたから、こうなった
ようですね。

そこで、核分裂の効率を上げるため、この天然ウランから、ウラン235を
取り出して、そのウェイトを高めることが考えられるようになりました。
これが濃縮です。 3%〜5%に上げて、原子力発電に用いようと言うわけです。

この方法は、主として遠心分離法とガス拡散法の二つがある様で、各国毎に
採用は異なります。 日本では、動燃(その後、核燃料サイクル機構、昨年、
原子力研究所と合併して、原子力研究開発機構となっている)が研究開発した、
純国産技術術である遠心分離法を採用しています。 この濃縮過程で、
ウランが工場から漏れ出さないよう、最新の技術による構造物と管理が
実用化されています。 かつ、ここでも、核拡散防止条約によって、
IAEA(国際原子力機関)の厳しい査察を受け、日本はそれを誠実に履行し、
国際的信用度を大いに高めています。

そして、日本原燃は、ウラン濃縮を行い、各地の原子力発電所に燃料
として供給していますが、規模を次第に拡大、最終的には国内需要の三分の
一程度を賄う考えでいるようです。 と言うことは、最大規模に達しても
国産だけでは間に合わないわけで、原子力先進国から輸入することになり、
現に行われているところです。 


使用済み燃料の取り扱いと放射性廃棄物の問題

原子力発電所が増え、今日、国内電力需要の約三分の一を賄うように
なりました。 化石燃料を使わないので、温暖化の原因となる二酸化炭素を
出さないなど環境に優しく、また、極めて安定している発電量によって、
基層電力を供給していると言われます。

このウランによる原子力発電の場合、同じ燃料を取り替えることのないまま、
次第に核分裂が進み、3年から4年使えると言われます。 石油や天然ガスと
違い、原子燃料は長持ちする分けです。でも、その位経つと、ウラン235の
量が減って1%位になり、効率が落ちて参ります。

そうなると、こうした燃料棒を順次、取り出し、放射能を吸収してしまう
性質を持つ水(蒸留水とも言われる純水を用います)の中に入れて
貯蔵しながら、次第に冷やすのですが、その再処理を行う必要が出て参ります。

ところが、以前の日本には、こうした設備もノウハウも有りませんでした。
また、第二次大戦で敗戦国となった日本に厳しい目が注がれていたと
言う事情もあったのでしょう。 かくして、これらの再処理は原子力先進国に
委託されることとなり、具体的には、英国とフランスに任されてきました。
これらの国は、技術や施設が進んでいましたし、また、既に核兵器保有国ですか
ら、再処理から原子燃料を抽出して原子爆弾にしてしまう国を増やすことも
避けられる分けです。 一種の核拡散の防止ですね。

ただ、この英仏へ委託した再処理ですが、それが終わった物は、日本へ
戻されてきます。 放射性の破棄物も、ウランやプルトニウムも厳重な
構造物の中に閉じこめられて、再び元発生国の日本にやってくるです。
そうすると、そうした物の保管、貯蔵、管理、燃料としての再利用などは
日本自らが行わねばなりません。

しかも、いつまでも英仏という外国に依存している分けにも参りますまい。
輸送の警備も深刻な問題です。 かくして、長年続いてきた、この委託も
終了することとなり、これからは、かつて委託して再処理された物が
戻ってくるだけの時代となったとのことです。

かくして、国内での再処理が大きな課題として浮上、原子燃料サイクルの、
もう一つの大きな柱である、再処理に本格的に取り掛かることになった
分けです。


再処理工場の建設へ

この事業は平成12年度(2000)から始められ、順次各施設が出来て
参りまして、現在は来年度の操業へ向けたアクティブな試験が
行われているようです。 ここでは、国の研究機関によって、
茨城県の東海村で開発、蓄積され、既に実績のある成果やフランスの
企業のノウハウが活かされているようです。

採用されるプロセスは、原子力発電所から送られてきた使用済みの
原子燃料を、更に純水の層の中に3〜4年、深く浸けて、放射能を徐々に減らし、
冷やし終えて、燃料棒を取り出し、剪断し、硝酸で溶解します。 その内の
核分裂生成物(ウラン235が中性子を受け、分裂して出来る諸々の
元素など)については、閉じこめ、溶かしたガラスと混ぜて、ステンレス製の
容器に入れて冷やし、固形化した状態で保存するようにします。 こうすると、
長期間安定し、出てこないと申します。 これが、高レベルの放射性破棄物で
原子燃料サイクルでは、必ず、対応しなければならない重要な課題です。

これまでのところ、外国で再処理された物が戻ってきていますが、その中に、
このガラス固化体もあり、既に建設済みの高レベル放射性廃棄物貯蔵管理
センターに深く収納し、30〜50年の冷却貯蔵に入っています。 ここに
いずれ、国内の再処理で出てくる廃棄物が加わってきます。

ただ、これは、最終の処分場ではなく、「特定放射性廃棄物の最終処分に関する
法律」によって、それが確保されることとなっておりまして、専任の機関も
作られ、場所の公募や選定に向けた調査・検討に入っているとのことです。 
平成40年代の後半に、最終処分場の操業が開始されるとの見通しが国に
よって立てられているようです。

なお、付言すれば、こうした高レベルの廃棄物に、大陽子加速装置で光速に近い
陽子をぶつけた原子核から得られる中性子を照射することによって、放射性の
高い元素から、より安定的な元素や半減期のもっと短い元素に変えられるように
することが考えられています。 そして、この装置は茨城県東海村で建設中
ですが、こうしたアイデアについて、評価や意見を伺ったところ、日本原燃の
皆さんも大いに期待しているとのことでした。 ただ、技術的に可能になった
としても、量をこなせるか、また、コストがどうかと言う辺りに関心がある
ようでしたね。


ウランとプルトニウムの取り出し

核分裂生成物を分離する一方、再使用できるウランやプルトニウムも
取り出し、これらを精製します。 このとき、一旦得られたプルトニウムは、
それを単独の状態にせず、精製されたウランの一部と再び混ぜます。 
この混交比率は1対1と言いますが、日米の原子力協定に依るもので、
核保有国でない日本が、プルトニウムを単独で保有することは認められない
と言うわけです。 プルトニウム単独だと、原爆製造に繋がる恐れが
なきにしもあらずとのことで、その可能性を排除している分けです。
国際政治の現実が顔を出していますね。

そして、精製されたウランとプルトニウムには硝酸が混じっていますから、
これを脱硝して、取り除きます。 そして、得られるのが、ウランの酸化物と
ウラン・ブルトニウムの混合酸化物です。

これらは製品として貯蔵され、原子力の次なる発電段階に利用されることに
なります。 その段階では、これらの製品は、MOX燃料というものに
作り替えられます。


MOX燃料とプルサーマル

プルトニウムが増えた燃料は、濃縮ウランによる燃料と大差なく
作動し、ともに、同じ原子炉で使えることが実証されています。

ウラン238がなお多くあるものの、この増えたプルトニウムと
一部残ったウラン235で出来た燃料をMOX燃料(Mixed Oxcide Fuel)
と言い、これを原子力発電所に投入すれば、濃縮ウランともども発電に
貢献します。 これをプルサーマルと言いますが、かくして、この再処理の
プロセスを繰り返すことによって、ウラン235に加わる、ウラン238の、
プルトニウム化による発展的利用の道が大きく開かれ、原子燃料のサイクル
が確立していくわけです。

近く、九州電力が玄海原子力発電所で、このプルサーマルによる
発電に取り掛かるとの事ですが、まだ、この燃料は外国製で輸入されます。

六ヶ所村の再処理施設が予定通り、来年度、本格稼働すれば、国産の
MOX燃料によるプルサーマルも可能となって来るわけで、資源・
エネルギーに乏しい我が国が、準国産とも言うべきエネルギー源を持つ
こととなり、画期的なことと言えましょう。


低レベル放射性廃棄物の埋設のこと

原子燃料のサイクルを考えれば、やはり、低レベルの放射性廃棄物が
必ず生じますから、このことを視野に入れて、対応する必要が
あります。

原子力発電所では、水を使いますし、水を浄化するフィルター、金属、
プラスティックを用います。 衣類や紙だって使われます。
これらは、原子燃料自身ではありませんし、その生成物でもありませんから、
放射能のレベルは低いのですが、それらを、そのまま廃棄するわけには
参りません。 

そこで、これらを焼却したり、溶融、圧縮、蒸発させたりして、出てくる
灰や、濃縮廃液、廃物などを、ドラム缶に収納、セメントやアスファルト、
プラスティックを用いて固形化します。

日本原燃では、発生箇所を明示したドラム缶を検査し、問題のないことを
確認して、埋設しています。 その方法としては、ドラム缶を横方向に、交互で
隙間のない様に積み上げ、セメントやモルタルで固め、一体化し、さらに土を
被せて、完全に地中化します。 既に、全国の原子力発電所から受け入れつつ
あり、次第に集積が出来て来ています。 これは、ここで、このまま貯蔵・保管
が続くことになっていると聞きました。 放射性廃棄物も、レベルによって
取り扱いが異なるようです。


原燃の全体像

日本原燃の事業は複雑で多岐に亘りますし、以上の紹介でも、到底カバーし
切れていないのですが、ウラン濃縮と使用済み原子燃料の再処理という
二大事業のあらましと、関連する放射性廃棄物の貯蔵や冷却化の概要は、
おおむね把握できたように思います。

また、かの巨大なむつ小川原工業基地の計画が、すっかり変貌を遂げ、
その土地が、我が国の原子力の根幹施設の場となり、国家事業や最先端の
民間企業の進出する所となっていることも、しっかりと実感できました。 
初めて訪れる土地であり、人が少なく、まるで地の果てのようなイメージが
あった所だけに、現地の最新鋭の施設状況は、高木が少ないものの緑多き
自然とともに、まさに刮目すべきものがありました。 

更に、この日本原燃の各般に渡る大規模な事業に、総合計で約二兆五千億もの
巨費が投じられ、それも関連企業の出資と融資と言う民間資金で賄われています。
その回収のため、直接の需要者=電力会社によって費用負担がきちんと
なされ、最終的には電気の利用者が電気代として払うと言うところに、新鮮な
驚きがありました。 ここのところが、原子力の研究開発や試験段階に
ついて、国が研究開発機関を作って取り組んでいる、茨城県の東海村に
代表されるケースと違う商業ベースの特長で、当然と言えば、当然なのですが、
良い勉強になりました

以上、ご笑覧有り難うございました。

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いばらき大使 仲津真治

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映画「バルトの楽園」:日独の戦と日英同盟
  Date: 2006-06-28 (Wed)

さて、今回、戦争と音楽をテーマにした日本映画を
鑑賞しましたので、そのことについて記すとともに、
関連することについて、若干論じたいと思います。

始めに、論旨を要約しておきましょう。


骨子 

大正3年(1914)、第一次世界大戦が勃発しますと、日本は
日英同盟の誼により、連合国側に立って参戦します。そして、
敵国となったドイツの東アジアの根拠地「青島」を、英国
とともに攻撃します。 ドイツ側は果敢に防戦しますが、
特に圧倒的な日本の兵力の前に降伏、約四千七百の将兵が
投降、捕虜として、日本に連れてこられます。

彼らは、始め全国の12箇所、やがて再編され、6箇所に
収容されますが、その中で、最終的に一千名の俘虜となった
徳島県鳴戸の坂東収容所は異彩を放っていました。 そこでは、
収容所長の松江大佐が、「捕虜もその祖国のために戦った
立派な将兵」として寛大な処遇を行い、俘虜の文化、牧畜、建築始め
様々の活動が、周辺の住民との交流にも発展、人々は先進国の
ドイツさんから多くのことを学びます。

そうするうちに、俘虜の間に松江所長始め日本人への感謝の
気持ちが芽生え、収容所生活が終わりに近づいた頃、そのための
一大イベントとして、ベートーベンの第九の演奏が企画されます。 
それは、女性のいない俘虜でソロや合唱をも行おうという試みですから、
男声のみのために、俘虜の中の音楽家が編曲した特別版でした。 
演奏は大成功、シラーの詩をもとにした、「人類愛」の歌声と調べが
坂東の地にこだましました。 本邦初の第九でした。

だが、会津出身であった松江大佐の「戊申の役で敗れた会津は、
過酷な処分を受けますが、復讐心ではなく、会津人の誇りで立ち
直りました。 貴国も是非!」と、降伏したドイツ人総督に
訴えますが、その後のドイツは、残酷なまでの連合国への賠償に
堪えかね、ナチス・ヒトラーの台頭を許し、報復への道を歩んで
いきます。

また、日本は、日英同盟をもとに、欧州までの派兵を要請してくる
英国に対し、「そこまでは無理、条約上も印度までが支援の限界」
と断りますが、それは、中立で、欧州のどことも同盟などの関係に
無かったアメリカが大正6年(1917)に参戦、大兵力を派遣し、
戦局を転換、連合国に最終的な勝利をもたらしたのと、極めて
対照的でした。 この結果、日露戦争後、日米対立の始まっていた
国際情勢下、日英同盟はアメリカの工作で解消に追い込まれ、日本は
重要な情報の入らない中、独自の道を歩まざるを得ず、孤立、事変、
戦争、そして、敗戦の不幸へと転げ落ちていきます。

音楽の偉大さと歴史から学ぶことの大切さが、痛感されます。

以上で、骨子は終え、本論に入ります。


映画「バルトの楽園」

映画は、「バルトの楽園」と言い、「戦場のアリア」と
同様、第一次大戦の実話をもとにした物語です。 バルトとは
ドイツ語のBartで「ひげ」の意味であり、登場する人物の多くが
立派な「ひげ」を蓄えていたことに関係し、楽園は「がくえん」と
読ませ、音楽の演じられた場所のイメージがあるようです。


日独の戦と青島攻防戦

物語は、青島(チンタオ)の激しい攻防戦のシーンから始まります。
ときは、大正3年(1914)でした。 この年の夏、ヨーロッパの
帝国主義列強は、英仏露などの陣営と独墺等の陣営に分かれ、
激しく対立、同年6月、サラエボでのオーストリア・ハンガリーの
皇太子が暗殺される事件を契機に、次々と主要国が戦闘状態に入り、
ここに第一次世界大戦が始まりました。

この大戦の戦場は、ほとんどヨーロッパに集中したため、第一次欧州大戦
と言う呼称もあるようですが、実は、他でも繰り広げられた戦闘があり
ました。 その代表例で地上戦となったのが、中国山東半島に位置する
青島の攻防戦です。

ドイツは、他の西欧列強同様、アジアに拠点を有していましたが、それが
膠州湾を擁する青島でした。 大戦に備え、堅固な要塞を築き、本国からの
派遣部隊のみならず、アジア各地から民間人をも召集、計約5千の守備隊を
配置していました。

これに対し、連合国の主軸をなす英国は、日英同盟を理由に、日本の
連合国側に立った参戦を要請してきました。これを受け、日本は、大正3年
(1914)の8月、参戦、青島の攻略に取り掛かりました。 英軍は約千の
部隊が展開していまたが、日本は久留米の第18師団を主力に約二万八千を
派兵、英軍とともに包囲、同年9月、攻撃を開始しました。

ドイツ軍は兵力で劣るものの、防備に優れ、果敢に戦い、攻防は七十日に
及びました。だが、11月の初め、遂にドイツ守備隊は降伏、約四千七百の
将兵が日本側の捕虜となったのです。

ハーグ条約の取り決めに従い、日本は、これを各地に収容することと
なりますが、候補となった地の部隊はいずれも反対、特に、ドイツ兵と戦闘を
交えた久留米は、住民感情が厳しいと、拒否反応を示しました。

しかし、結局、その久留米を初め、全国12箇所で収容することとなり、
ドイツ将兵の俘虜(収容されると、捕虜の呼称が俘虜となります)としての
生活が始まったのです。

この物語でも、最初は久留米での俘虜達が登場します。


久留米から、徳島県の鳴門郊外の坂東へ

久留米の俘虜の処遇は劣悪でした。 もっとましな取り扱いを要求した
ドイツ将校を、収容所長が殴打するようなことも起きました。 

2年経った大正6年(1917)、俘虜収容所の統合再編が行われ、六カ所と
なりました。 このとき、久留米にいた将兵の一部が、坂東に移されて
きました。 その中に、パン職人カルルや、カメラマンのヘルマンも
居たのです。彼らは、久留米と同じような、ひどい俘虜生活が続くと
覚悟していましたが、坂東に着いてみると、何と、ドイツ将兵による音楽演奏で
歓迎されたのです。 あまりの待遇の違いに驚いた彼らでしたが、間もなく、
新旧の収容者は合流、大歓声があがります。 その夜の消灯時間は深夜の
12時と宣告されました。 久々に、ともども語らえと言う趣旨です。 
同時に、坂東は、約千名の収容所へと大きくなりました。


坂東の収容所が寛大で、俘虜の自由が相当認められた分け

坂東では、起床ラッパに始まり、消灯ラッパに終わる規律正しい
俘虜生活が営まれていましたが、例えば、外出が可能で、周辺の
住民との交流も可能であり、海水浴すら認められていたのです。

これは、収容所長の松江大佐(松平 健が演じる)の戦争捕虜処遇の
方針に依るところ大なるものがありました。 大佐は、会津出身で、
戊申の役で敗れた会津の藩士や郎党を、官軍や維新政府が、極めて過酷な
取り扱いをしたことを教訓に、父からも厳しく教育され、「勝者は
敗者をかように扱ってはならぬ」と、子供心に刻み込まれ、長じて後、
日本陸軍の将校となってからも、心中深く期する所があったようです。

もとより、この方針には批判もあり、映画の中でも伊藤少尉(阿部 寛)が
その役を演じます。 松江大佐は、その説得に努めながら、寛大な
方針を貫き、陸軍の中央にも抗います。

大佐は、自らの信念について、ドイツ側の青島総督(司令官:映画では、
ハインリッヒ少将と言う人物になっている)に、自らの幼少の体験を交え、
語ります。 (かなりの所まで、ドイツ語でですから、俳優も大変ですね。)

曰く、会津の戦で、会津藩は白虎隊、娘子軍初め三千余名という、戊申の役で
最大の犠牲を出した上、敗れ、現在の青森県東部から岩手県北部の、寒冷
厳しき地に、斗南藩として移封されます。 その数、一万七千余、官軍による
凄まじく苛烈な処分でした。 しかし、会津人は苦闘しつつも頑張りぬき、
薩長優位の中、差別を受けながらも、松江大佐のように、陸軍の中堅将校と
なる者も出て来ました。 大佐は語ります。「それを支えたものは、復讐心
ではない。 会津人としての誇りだ。」と。 そして、少将に「貴国は敗れたが、
ドイツ人の誇りをもって、祖国の復興再建に取り組んで欲しい」と告げます。

この発言は、大変意味深長に思われます。 この映画の、ひとつのハイライト
と言ってもよいでしょう。 なぜなら、敗戦国ドイツは、大正8年(1919の
ベルサイユの講和により、全海外領土と東部を中心に相当部分の本国領土を
失い、恐ろしく過酷な賠償金を課されるなど、塗炭の苦しみを味わったからです。
過酷な処分を受けた会津は日本国内にあり、福島県の一部となりますから、
ドイツは連合国とは別の国であると言う基本的な事情の違いはあります。しかし、
その後のドイツは、戦勝連合国の苛烈な仕打ちに悲憤慷慨し、恨み骨髄の心情と
なってまいります。 この心理に巧みに乗じたヒトラー・ナチスは、報復を扇動、
ゲルマン民族による世界征服の野望へと駆り立てて行きます。この復讐・報復の
心情を最も端的に著すのが、V1やV2と言われたロケット弾で、
Vergeltungswaffe(報復兵器)の略称です。

かくして、第一次大戦後の事態は松江大佐の勧めるようにはなりませんでした。
ドイツ側総督を演じる人物が、ブルーノ・ガンツというスイス出身のドイツ
俳優で、最近上映された「ヒトラー 最後の12日間」という映画で、ヒトラー
を迫真の演技で演じたというのも、映画の世界でのこととはいえ、因縁めいて
いますね。


坂東の人々は優しく、比較的豊かで、ドイツさんから学んだ

収容所の地、坂東には、四国八十八箇所の一番の札所、霊仙寺がありました。
人々は、お遍路さんを迎え、見知らぬ旅人を遇することに慣れていました。
この文化と慣行は、ドイツ人俘虜を厚遇することに貢献しました。 しかも、
この地は藍の生産で知られ、比較的豊かで、経済的余裕もありました。
かように、松江大佐の存在と人柄のみならず、いろいろと好条件がそろって
居たのです。こうしたことは、映画では明確に描かれていませんが、有る程度
察するこが出来ます。

人々は、俘虜をドイツさんと親しみを込めて呼び、先進国ドイツの進んだ
文化や技術を大いに学びました。 それは、建築、土木、音楽、美術、
印刷、農業、牧畜、料理、パン、菓子づくりなど多分野に亘りました。 
ドイツ人が、軍の部隊のみならず、アジア各地から広く集められ、往時の
青島に人材が揃っていたと言う事情もあるようです。

中には、手作りのバイオリンを自ら製造、ドイツ人のバイオリン奏者
エンゲルから、レッスンを受けた日本人の若人が何人か居ました。 彼らは、
ドイツ人が収容所を離れ、故国へ旅立つとき、感謝の思いで恩師を囲み、
一人の伴奏で「仰げば尊し」を歌います。 思わず、ジーンと来る
シーンです。

また、カルルは、パン職人の腕を発揮、遂に、日本に残る決意をします。
そのとき、日本人を妻とし、横浜で子を成したが、召集され、青島で
戦死したフランツという水兵の「志お」という娘を引き取ります。 これが、
今日に繋がる「ユーハイム」の始まりと言うから、驚きです。

こうしたノウハウや技術の伝授は、収容所の経営の観点からも促進され
ました。 と言うのも、陸軍の中央が、松江大佐の寛大な収容方針に
異を唱え、贅沢はさせんとばかり、予算を削ったからです。 山林を
管理し、伐採した木材を販売することに始まり、大正7年(1918)の
3月には、世界でも例のない、俘虜の製作した作品の展示会を開催、
販売まで行いました。


遂に、ベートーベンの第九の演奏へ

史実によれば、この演奏は大正7年(1918)の6月1日に行われています。
しかし、映画では、ドラマテッィクなフィクションが採用されました。

ドイツは、大正7年(1918)11月、降伏します。 青島では敗れたが、
主戦場での祖国の勝利を信じていた俘虜に衝撃が走り、収容者は重苦しい
雰囲気に包まれます。 彼らは、何もやる気をなくし、やけ酒におぼれる
者も現れ、カメラマンのヘルマンの属する収容所新聞も発行されなくなります。

坂東の人々は、俘虜に気を遣い、徳島始め他の都市ではあった戦勝の提灯行列も
行なわなかったのです

さらに、悲劇的なことに、俘虜の誇りであり、支えであった総督が自決を
決意、実行します。 幸い、一命を取り止めますが、事態は一段と悪化して
いきます。

このとき、収容所長の松江大佐が、総督を励まし、新聞の再開を命じます。
ヘルマン始めドイツ人俘虜は一斉に敬礼、所長の命令で、再発行に掛かります。
そして、終戦により、俘虜の母国への帰国も決まり、収容所に次第に活気が
戻ってきます。 ドイツ人の間に、松江所長と収容所、そして周りの日本人に
感謝を示そうとの気運が盛り上がり、そのために、遂に、ベートーベンの第九の
演奏が企画されるのです。


男声合唱への編曲

指揮者ハンゼンは、この企画を進める決心をしますが、難題を指摘されます。
「第九? あれは混声だ。 俘虜に女はいない」と。 かくして、世界の
第九演奏史上おそらく例のない、男声のみのソロと合唱による第九演奏への
挑戦が始まりました。 その編曲は、バイオリニストのエンゲルが担当しました。

足りない楽器は、代用による工夫もされました。 そして、練習、・・・・・。


本邦初演の第九

収容所の広場にオーケストラとソリスト、合唱用の舞台が設営され、
その前面にゴザを敷き詰めた聴衆席が用意されました。 いろんな縁の
人々がやってきます。 ゴザの席に座るのは、主に日本人の聴衆、所長始め
若干の人々のための椅子席、あとは、立ち席となり、そこには、楽団や
合唱団に加わらないドイツ人俘虜が、ぎっしりと立ちました。

いよいよ演奏、第九の第一楽章の天地創造を思わせるところから、始まりました。
第二楽章に入ると、太鼓の多用で支えられる主旋律が、造山活動を思わせるとい
いますが、この映画では、砲声が炸裂する戦闘場面を画面に展開していました。
続く第三楽章は、生命誕生をイメージしたと言われる静かな曲が流れますが、
そこでは、ドイツと日本の美しい、田園、町、里山の映像が使われました。

いよいよ、ソリストや合唱が登場する第四楽章では、場面が収容所の会場に
戻り、歌詞を知るドイツ人俘虜の聴衆が、ともに歌うかと思うと、知らないが
リズムに乗った日本人が、肩を揺らせて聞き惚れると言うシーンが展開します。
第九なるものを、まるで知らない日本人の初の反応として、良く描けていると
思いましたね。そして、この場面では、ソリストも合唱も、テノール1、
テノール2、バリトン、バスの男声の四声で歌われていることが良く分かり
ました。

音源は、何とカラヤン指揮のベルリンフィルハーモニーの第九演奏を用いたと聞
きますが、この男声ばかりが歌うところはそうではないでしょう。 そのための
演奏が行われたはずです。 

映画は、大正時代の日本でただ一度の、坂東での本邦初演の第九を終えた後、
今や、世界で最も第九演奏の盛んな日本の現代を紹介、カラヤン自身の指揮する
場面や各地での第九を描きます。 その音源は、上述したものと同じ物と
思われます。 

この映画は、日本のみならず、ドイツでも上映されるようですが、日独以外でも、
そうした機会が持たれることが期待されます。 日本と歴史、その音楽文化と
交流を、世界の各国に知って貰う良い機会となりましょう。


日独の戦と日英同盟

ところで、ここから、一つの付言となりますが、この物語の背景と、
関連する日本の政治・外交について、大事なことと思われますので、
若干記します。

前述の通り、第一次大戦が起き、日本は日英同盟の誼で、これに参戦しました。
この日英同盟は、日露戦争の少し前の明治35年(1902)に結ばれた
条約で、アジアを中心とする日英の利害が一致し、相互支援の必要性が
認識されて締結されたものですが、日本の対露戦争の決断、継戦、そして
勝利に大いなる支えになったと言われます。 英国にとっても、ロシアの
進出を阻止する上で、有用な手立てとなり、栄誉有る孤立を脱して、条約を
結んだ意義があったようです。

だが、第一次大戦では、国際的な枠組みと状況が変わり、ロシアが連合国側に
立ちますが、英国にとって主敵は、新興のドイツとなりました。 それは、
強力な統一国家として登場し、英仏の連合を組んでも、勝利がおぼつかない
工業大国として現れてきました。 英国は、その存立に関わる戦争をドイツと
行うこととなり、同盟国日本の支援と参戦を強く望みました。

しかし、極東の日本から見て、欧州は遠すぎ、大兵力を送るなど、実際上
無理と考えられました。 輸送船もとても足りないと言うわけです。

かくして、日本は英国の要請を入れ、参戦したものの、その範囲は
限定されたものでした。 この映画が取り扱った、ドイツの極東拠点である
青島の包囲攻略が主なもので、後は、ドイツの潜水艦群と戦うための
駆逐艦と、若干の航空機の派遣に止まりました。 また、条約上も、
日英間で合意されていた日本の対英支援範囲は印度まででした。 従って、
日本の対応は、条約違反では無かったのです。

しかし、国の存亡に関わる大戦争をした英国には、日本に対する不満が
残ったと言われます。 歴史に「もし、・・・」は許されず、切りが
ありませんが、日本は対英協力の規模を真面目に考えすぎたと見られています。

大兵力でなくとも、相応の兵力で欧州戦線への参戦を果たしておれば、
日本への英国始め連合国の信頼と評価は高まり、大戦後への発言権を大きく出来、
日英同盟の継続が可能となっていたと申します。

これに対し、アメリカは、モンロー主義の伝統により、欧州の問題に
不介入の方針を取り、英仏などいずれの国とも同盟関係等に無かったにも
関わらず、大正6年(1917)の4月に、連合国側に立って参戦し、何と
二百万の大軍を派遣するに至ります。 切っ掛けは、ドイツがその年の2月に
始めた潜水艦による無差別攻撃にあり、アメリカの船舶が撃沈されたことで、
世論が激高、連合国側の国々からの移民の声にも押されたからと言われます。

このアメリカの参戦で、戦局は連合国有利に傾き、ロシアの革命による
同国の戦線離脱にもかかわらず、第一次大戦はドイツ等の降伏で結着しました。

敗戦国となる可能性が十分あった英国などは、このアメリカの参戦を高く
評価します。


アメリカの画策と日英同盟の終焉

アメリカは、この機をとらえ、日英同盟を解消させるぺく動きを始めます。
と言うのも、中国始めアジアを巡って、日露戦争後、日米の対立が始まって
おり、アメリカ側から見て、日本と交渉などをするときに、英国が同盟関係で
日本側に立つのは、好ましく無かったからです。

かくして、アメリカは、カナダやオーストラリアなどとも連携、英国の本国を
動かし、日英同盟を大正10年(1921)に解消させることに成功します。
代わりに、日米英仏の四ヶ国条約を結びますが、これは肝心の時に
安全保障面で役に立たないもので、かくして、情報面でも大したものは
得られない状態となってしまいました。 日英同盟をなくした日本は、
以後、ワシントン条約やロンドン条約など、主要な国際会議の局面などで、
大事な情報が入らず、決定的に不利な状況に追い込まれ、不幸な孤立と戦争へ
傾斜を強めて行ってしまいます。

こうして見てくると、第一次大戦における日英同盟の活用に、時代の転換に
関わる大きな鍵が有ったことが分かります。 青島の攻防と、その後の
ドイツ人捕虜の収容と交流に止まらない、大切な国際的分水嶺とも言う
べき局面があったことは、認識しておく必要があります。 


日米対立の芽

もう少し時代を遡れば、前述した日露戦争後に始まる日米対立についても、
転換点となる局面があったようです。 それは、日露戦争の結果、ロシアの
勢力を駆逐した後の満州で、開発の中心インフラとなる南満州鉄道の整備と
経営に、アメリカの鉄道事業者が関心を示したのに対し、日本側がそれを
断ったことにあります。 

明治の元勲達は、日露の講和でアメリカの世話になった経緯もあり、
政治的な直感からか、このアメリカ側の関心に応えても良いとの考え
でしたが、日露の講和交渉をまとめた小村寿太郎外相が、「幾万の尊い
日本人将兵の血で勝ち取ったものを、むざむざ外国資本に食い込まれる
謂われはない」との趣旨を強硬に主張、結局、その意見が通りました。

歴史に「もし」は許されませんが、かのビスマルクが明言した如く、
歴史から学ぶことは大切であり、そこで得られる知恵や教訓を活かすことは、
とても大事なことと思えます。

映画の鑑賞と併せ、歴史も振り返り、いろいろと記しました。

ご笑覧頂き、感謝申し上げる次第です。

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世界遺産を考える
  Date: 2006-06-20 (Tue)

さて、世界遺産という国際的な制度が出来たのが1972年(昭和47年)、
その仕組みが発効したのが1975年(昭和50年)と、相当な歳月が
経ちまして、世界遺産は、今や、内外とも大変な関心を呼び、実効を上げつつ、
多種多様な課題のある時代となりました。

最近、私どもが開催している勉強会・交流会で、このテーマを取り上げ、
講師の方から、いろいろ教わるとともに、あれこれと議論いたしました。

それをもとに、私なりにまとめ、御一緒に考えてみたいと思います。 
ご一読頂ければ幸いです。 

まずは、簡単に論旨を要約しておきましょう。 世界遺産は、既に
三十年余の歴史をもつ、地球と人類の優れた遺産を保護・保存する
国際的な仕組みですが、登録件数が八百件を超えるなど、成熟段階を
迎えつつあります。 これからもある程度の増加を許容しつつも、
保護保存の実効を上げるため、世界遺産の効果によって受益している
観光・旅行、出版・報道などからの利益の相応還元を図り、より意義
有る有用な仕組みとすべきように思われます。

それでは、本稿の骨子は以上にして、その本論に入って参ります。


ユネスコが主導

世界遺産は、国際的な取り決めによるものですが、その中心に位置して
いるのは国際連合であり、その専門機関であるユネスコが責任主体となり、
主導しています。 また、この取り決めは、条約によっています。

ユネスコは、国連本体と異なり、フランスのバリに本部を置きますが、
国際連盟時代の新渡戸稲造事務次長の功績など、我が国自身の長年の
貢献により、日本は、1951年(昭和26年)に加盟していました。
国際連合、正確に訳せば連合国という戦勝国の連合体に、敗戦国日本の
加盟が認められたのが、1956年ですから、それに先立つこと5年と
言うことになります。  

さりながら、この国の世界遺産条約への参加(条約の批准は、やや遅く、
1992年(平成4年)のことです。


世界遺産とは?

解説によれば、世界遺産とは、「地球の生成と人類の歴史によって
生み出され、過去から引き継いだ貴重なたからもの」と言われます。

このことから分かりますように、ひとつは「自然遺産」と言われる
地球が生成した貴重な自然環境があります。 もうひとつは、「文化遺産」
と言われ、様々な国や地域に住む人々が誇る優れた文化財があります。
更に、これら二つの特性をともに持つ「複合遺産」があります。

世界遺産は、登録制度をとっていて、その手続きや審査は、なかなか
厳しいものがあります。 まず、遺産たるべき物件を保有する国が
条約に加盟した上で、その暫定のリストをユネスコ(ここに世界遺産
センターがあります)に提出し、その中から、要件のそろったものを、
原則として一年に各国一件を申請します。 これらの物件は、性質上
不動産と言うべき物で、個々の展示物などは対象となりません。

さて、このセンターは、これを受理したら、文化遺産と自然遺産それぞれの
専門の機関に現地調査を依頼し、各々の機関の専門家が、現地を調査し、
その価値、保護保存状態、今後の保護・保存管理計画などについて
評価をします。

この評価報告書がセンターに提出され、これをもとに、ユネスコの
世界遺産委員会が登録の可否を決定します。

この手続き全体に渡って、また、登録後も、国内外の関係機関や
関係者の皆さんのご努力も尋常なものではないようです。


世界遺産は、今、どれくらい登録されているのか?

こうした大変な手続きを経て登録に至った物件は、2005年(平成17年)
8月現在、全部で812に達しています。 既に、相当な数で、世界遺産の
登録制度は、約一千件を目安に成熟段階に入ったと言われますが、この
仕組みの知名度が上がり、観光面その他の効果が知られるにつれ、申請
しようとする向きは、ますます勢いを増していると申します。 

なお、これらの内訳を見ますと、文化遺産が628、自然遺産が160、
複合遺産が24となっています。 日本は、これまで13件を申請、その
全てについて世界遺産の登録を得ています。例えば、文化遺産では法隆寺地域の
仏教建築物、姫路城、古都京都、古都奈良、白川郷・五箇山の合掌造り等か有り、
自然遺産では、屋久島、白神山地、知床があります。

世界全体を見渡すと、やはり、ヨーロッパが圧倒的に多く、次いでアジアで、
アフリカや新大陸は少ない傾向が見られます。 これは、自然遺産に比べ、
文化遺産がはるかに多いことや、現代に通じる歴史と文化の重み、そして、
石造文化を重視する姿勢を反映したものと言われます。


この仕組みが出来た分けを考えよう

これには、幾つか考えられますが、私なりに整理してみると、次のような
世界的な背景や事情が考えられます。

まず、20世紀の後半にいたり、人類がようやく豊かさを手にしたと言うこと
があります。もとより、現代でも、貧困にあえぐ国、地域、人々は多く、比率
としては、その方が遙かに高いのですが、先進国を中心に相当の富と経済社会
活動が見られ、分野によっては地球自体に負担となるレベルにまで来ています。
19世紀のヨーロッパでさえ、大衆は凄まじく貧しかったと言われますから、
今日の世界は、全体としてみて、やっと余力を手にするところまで来たと
言えるでしょう。 産業革命以来の発展と近年の情報通信革命の成果により、
生存に必死の段階を乗り越え、文化や自然を振り返るゆとりが生まれ、国際合意
まで得られるようになったと言うことでしょう。 また、この余力が出来て
初めて、貧しい国や地域の遺産を、国際的な枠組みを作って、守っていこうと
言う気運が醸成され、結実したものと思われます。

次に、二十世紀には世界全体を巻き込む大戦が二度も起き、凄まじい破壊と殺戮
を引き起こしました。 しかも、その後も地域紛争や内戦など戦火は絶えず、
火力の増大は、一段と破壊の程度を大きくしています。 それらは、世界遺産の
ような人類共通の価値ある物件に、被害をもたらし、喪失の危険を生じさせて
います。 早く、手を打とうという国際合意が得られたのもむぺなるかなの
感があります。

それから、人類の経済・社会活動などによる地球環境の変化が上げられます。
温暖化はその代表でしょう。 気象の恒常的な状況が変わってくれば、特に、
自然遺産に悪影響を及ぼす事が考えられ、文化遺産だって無傷ではありますまい。


世界遺産の意義

このような背景や事情で、世界遺産の仕組みが出来、発展しているのですが、
注目すべき事が幾つか有ります。 

ひとつは、広島の原爆ドームが文化遺産として登録されたことです。 これは、
特に「負の遺産」と言う概念で捉えられ、人類はかかる惨禍を繰り返しては
ならないことを訴える趣旨と言われます。 これを世界遺産とするについては、
アメリカと中国が反対したと言われますが、にもかかわらず、世界遺産となった
ことに、核兵器の恐ろしさを認識し、それが使用されてはならないとする
世界の世論の重みと広がりを示すものと言って良いでしょう。

もう一つは、中国がこの条約に参加し、世界遺産の登録を得ていることです。
中国は共産党の統治する国であり、その一党独裁下にあります。 共産党は
あらゆる組織等の人事や財政等について、自らの主導権・支配権を確立し、
他の干渉を排除しようとしますが、国際条約に加入し、その手続きによって
申請し、審査を受けるなどというのは、こうした干渉を許す道に繋がります。 
話は違いますが、中国がカソリックの総本山であるバチカンと外交関係を
持たないのは、共産党の支配下にある中国のカソリック協会について、その
人事権をローマ法王に持って行かれる、ないし、その関与を受けることを
嫌うからと言われますが、これも相通じるところがあると思われます。

にもかかわらず、世界遺産条約に中国が加入し、遺産登録を受けていると
言うことは、そうした干渉の可能性を上回る、観光などの実利上の有益性を
見いだしているからでしょうし、また、中国三千年の文化・文明の意義・重み
への自負であり、中華思想の然らしむる所のように思われます。


世界遺産の効果とその活用

世界遺産は年月とともに、良く知られるようになり、保護・保存等の管理への
効果のみならず、観光への効用など、大きな経済的・社会的利益を生むように
なりました。 そして、観光などでは、見学者の殺到により、むしろ遺産や
その周辺の混雑を生じ、無視できない破壊や損傷を起こすようになって
きました。 また、合掌造りのように、遺産と言っても現に人々が暮らして
いる生活の基盤や諸条件を脅かすケースも出てきました。

これらは、真剣に対応を考える必要を生じさせています。 まだまだ制度化の
議論に至っていないようですが、世界遺産によって、大きな利益が生じて
いる観光・旅行、出版・報道などに相応の負担を求め、遺産の効果の享受を
適正なものにするとともに、その負担によって、遺産の保護・保存などの
管理に役立てる仕組みの検討と制度化が、大切な課題になってきていると
思われます。

また、国際的な枠組みにより、条約化されて世界遺産の制度が実現、実効を
上げていると言っても、その具体的な管理・規制・運用は、各国の国内法に
よっています。

各国ともども、日本も真剣に考えるべきと思います。

_________________

いばらき大使 仲津真治

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映画「ダ・ヴィンチ コード」:フィクションでも関心を呼ぶ
  Date: 2006-06-14 (Wed)

ダ・ヴィンチ コードという原作と映画

さて、今回は再び映画を取り上げようと思いますが、
そのタイトルは、「ダ・ヴィンチ コード」と言い、
原作者はまだ四十代のアメリカ人、ダン・プラウンという人で
この作品は、近年まれに見るミリオンセラーとなり、世界中で
五千万部を売り上げたと言います。 映画も、分かりにくいものの
なかなかの人気です。

そのエッセンスは、フィクションと断っていますが、キリスト教、
とりわけイエス・キリストについて今日に繋がる秘密があり、それを
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵に込められた暗号で、解き明かしていく
スリルとサスペンスの推理物語と言ってよいでしょうか。

長文で申し訳ありませんが、御寛容頂き、ご笑覧頂ければ
幸いです。


イエス・キリストには妻が居て、子供も出来ていた?!

原作そして映画は、この重大な秘密を前提に、有名なレオナルド・ダ・
ヴィンチの絵に、その謎が秘められているとして、物語を展開し、大いに
盛り上げます。 このルネッサンスの大天才は、この秘密を知っていて、
簡単には分からないようにしながら、しかし、いずれ解き明かされる
ように、その作品に暗号(Code コード )を残したと言うわけです。 


歴史と物語の背景

キリスト教には、とりわけ、その初期に激しく論争され、正統と異端に
分かれた、教義、特に、イエス・キリストを巡る深刻な論点があるとされます。 
私は、門外漢ながら、この大昔にあった論争こそが、今回の物語や映画を生む
歴史的な背景として、まず指摘されるべきであると思います。

イエスは、往時、その到来を待望していたユダヤの人々の間で、この人こそ、
神が使わした、ヘブライ語でメシア、そのギリシャ語訳でキリストであり、
救世主として、受け入れられました。 しかし、そのイエスは、モーゼ以来の
ユダヤの律法を否定しないものの、神に選ばれたる民と自覚するユダヤ人に
限らず、律法を持たない異邦人や、律法を守れない貧者や病人等への愛を説き、
神への愛と隣人愛をもとに、全人類の救済を訴えたのです。 これは、当時の
ユダヤ教の司祭や律法主義者の恨みを買うこととなり、イエスは捕らえられ、
ローマの官憲に引き渡され、十字架刑に処せられました。 紀元後30年の
頃のことです。

しかし、残された使徒達は熱心に宣教に努め、とりわけ、当初は弾圧する側に
あり、後で改宗した使徒パウロの功績は大きく、キリスト教は、新興ながら、
東地中海世界へ広まっていきました。 やがて、一世紀の半ばから二世紀に
かけて、新約聖書の各巻が成立、信奉者が増えた参りましたが、ローマ帝国は
快く思わず、怒りも露わに、四世紀の初めにかけて、凄まじい迫害を行いました。
 
しかし、結局、信仰の広がりに勝てず、コンスタンティヌス帝が登場するに
及び、遂に、その是認に転じ、紀元313年のミラノ勅令により、公認する
ところまで参りました。 となると、聖典や教義について公式化する必要が出て
きて、325年に二ケアの公会議が開かれました。 映画でも、その大会議の
場面が描かれています。 様々な文献のうち、聖書に含めるものとそうでないも
のの区分に始まり、聖典や教義を巡り、盛んな議論が行われたと申します。

このとき、イエス・キリストが神の子であるかどうかが大論争の対象となりまし
た。 結局、「イエスも普通の人と同じく、神の被造物」とするアリウス派の
説は斥けられ、「イエスは神の子である。 全知全能であり、創造者である
父なる神と、贖罪のため世に現れた子なる神イエスと、人々の信仰経験に顕示
された精霊(Spirit)なる神は、一体であり、唯一なる神の三つの位挌(ペルソナ)
として現れるものである。 この三者に上下の区分はない。」とするアタナシウ
ス派の三位一体説が正統として認められました。 この三位一体説は、今日の
ローマン・カソリック教会、ギリシャ正教会等の東方正教会、プロテスタント
諸派のいずれでも、ほぼ同様に受け継がれていると申します。

さて、ここで、イエスは神の子でなく、人であるとする説が、初期の
キリスト教内であったことが分かりますが、キリスト神学者に伺うと、
今日に至るも、やはり、この考え方を継承する人々が、キリスト教の中に
少数ながら居ると申します。
 
まして、キリスト教の外では、このことは公然と主張されています。ユダヤ教や
イスラム教は明らかにそうで、イエスは預言者ではあるが神の子でないとし、
キリスト教正統派の考え方を否定しています。 ここに、広く根深い宗教対立の
根源というべきものがあります。

大昔に結着した宗教論争ではありますが、異端とされた説や派がその後も残り、
非キリスト教の世界では当然、別説によっているなどを考えあわせますと、
また、世の中には様々な意見があり、無神論者や科学的実証主義者も結構居るこ
とを俯瞰しますと、「イエスも人の子、結婚し、子供が居たっておかしくない」
という見方が、世に多く存在することは否めないでしょう。これが、今回のよう
な物語が書かれ、映画が制作される第一の背景と思われます。


歴史のその後

さて、ローマのコンスタンティヌス帝によって公認されたキリスト教ですが、や
がてローマ帝国は、コンスタンティヌスの治世下の330年、その首都をローマ
からコンスタンティノーブル(今日のイスタンブール)に移します。 その名は、
同皇帝に由来するものとみて良いでしょう。  そして、キリスト教は、遂に、
392年ローマの国教となり、全ての異教例祭が禁止されます。他方、ローマと
コンスタンティノープルの間に生じた確執は、帝国を遂に分裂させます。 
395年のことです。

一方、キリスト内の論争は、その後も続きます。 5世紀になると、イエス・キ
リストの神性と人性の関係が問題となり、「これを峻別し、聖母マリアを神の母
と呼ぶことに反対したネストリウス派は、431年のエフェソス公会議で異端と
され、さらに、イエス・キリストに神性のみを認める単性説も、451年のカル
ケドン公会議で異端とされました。つまり、イエスは、一位挌で、神性も人性も
両方とも完全に持つものとするのが正統とされたわけです。 この点、キリスト
教の神学者に伺ったところ、単性説を主張する人々や会派は今日、ほとんどない
そうで、イエス・キリストは人でもあると言うわけです。 とすれば、「人ならば、・
・・・」
と言う受け止め方も出て参りましょう。

その後、ローマを首都とする西ローマ帝国は476年に滅んでしまいます。 本
来のローマの文化や伝統は主として西に承継されていましたから、コンスタンテ
ィノープルを首都とする東ローマ帝国は変容し、やがて、ビザンチン帝国や
ギリシャ帝国と呼ばれるようになり、これが、キリスト教の、ローマを中心とす
るローマン・カソリックと、コンスタンティノープルを中心とするギリシャ正教
等へと分裂する契機ともなりました。 (1054年分裂確定)

この両派では、いろんな違いがありますが、特に興味深いのは、イエス・
キリストの誕生日、つまりクリスマスの日が違っていることです。
聖書には、生誕の日の記録はありませんから、結局それは決め事なのですが、
カソリックそしてプロテスタントでは、良く知られているように、
12月25日です。 その昔、キリスト教のゲルマン民族への布教を
図るに当たり、その人々の原始宗教からの改宗を促すため、冬至を祝うという
彼らの慣習を取り入れて、12月25日にしたと申します。 聖母マリアが
妊娠したのが3月という聖書の記述とも矛盾しないだろうと考えられた
そうです。

これに対し、ギリシャ正教など東方正教会では、1月7日をクリスマスと
しています。 この分けは、1582年に、暦と太陽の位置とのずれを
是正するため、当時のグレゴリウス教皇(法王)が、ユリウス暦を、いわゆる
グレゴリウス暦(今日の暦)に改訂したとき、それによって生じる月日の
異動を、ギリシャ正教会が受け入れず、従来のままにしたからと言われます。
いろんな所で、両者の対立が芽を出したようですね。


アメリカ人が書き、アメリカ映画として作られたこと

さて、話を戻しましょう。「ダ・ヴィンチ コード」は、アメリカ人が書き、
ロン・ハワード監督によるアメリカ映画として作られました。  アメリカは
キリスト教国とは言え、ヨーロッパほどの歴史のしがらみや伝統文化の重みが
なく、ローマン・カソリックの影響も強くありません。 これが、キリスト教の
謎に挑戦する自由な雰囲気を醸成していて、この物語や映画制作の、もう一つの
背景にあるように思います。


ロスリン礼拝堂

もっとも、アメリカ主体の映画ですが、撮影場所は、ほとんどイギリスと
フランスです。 その内の大事な一つが、スコットランドの首都エジンバラの
南郊にある「ロスリン礼拝堂」です。 謎に満ちた建物で、長年、学者の
論議の対象となってきました。 そこには、十字軍に起源を持ち、聖地
エルサレムの防衛警備に限らず、広範囲に影響力を行使したと言われる
「テンプル騎士団」や秘密結社の「フリーメイソン」、聖杯伝説などに
まつわる象徴が刻み込まれた数多くの彫刻が存在します。 今日に至るも、
この礼拝堂には、キリスト教に関する重大なものが隠されていると言われ
続けています。

原作者ダン・プラウンは、ここを訪れ、物語の大切なヒントを得たと
言います。 何かがあると、・・・・・。


「最後の晩餐」の絵

撮影は、モナリザの置かれる、パリのルーブル美術館でも行われ、
このダ・ヴィンチの名作の謎も解説されます。 背景となる地平線の位置が、
人物の左と右で随分違うのが、その一例というのです。 

しかし、物語でより大きな意味を持ってくるのは、イタリアの「サンタ・マリア
・デレ・グラツィエ教会」に描かれた「最後の晩餐」です。 原作者のダン・
ブラウンは、ロスリン礼拝堂での知見などに基づき、この絵をじっくりと鑑賞、
次なるヒントを得たのでしょう。 それを、英国人のデービング卿と言う
登場人物に語らせています。 曰く、この絵は、「晩餐」と言われ、イエスが
「これは我が血と思え」とワインを分け与えた情景などを念頭に描いていると
言われるのに、杯が描かれていないと言うのです。 絵の卓上や各人の手を
見ても確かに、杯は見当たりません。 不自然ですね。 何故でしょう。

卿は、トム・ハンクス演ずるラングトンハーバード大学教授や、自らの出自の
謎に迫ろうとするソフィー・ヌボー(フランス人女優 オドレイ・トトウが演じる)
に対し、絵の真ん中に描かれたイエス・キリストの向かって左側が女性で、
その間が、逆三角形で大きく空いており、それが、聖杯を形作る空間であると
説きます。 ダ・ヴィンチが、晩餐の絵に込めた意味ある形というわけです。

そして、この女性こそ、マグダラのマリアで、福音書に登場する聖女であり、
イエスに従ったと申します。元娼婦ながら改悛し、キリストの磔刑、埋葬を
見届け、その復活に最初に立ち合ったと言われます。 卿は、このマリアを、
向かって右へ移動すると、マリアがキリストに優しく寄り添っている意味深な
構図になると言い、プロジェクターでそれを証明します。 

続いて、このマリアが、実はイエスと結婚し、子を設けて居たのだと話します。
ダ・ヴィンチは、その事を知っていた、そして、この絵を通して、世に知ら
しめようとしたのはないかと言うわけです。 ルネッサンスと言う文芸復興の
息吹の中で・・・・・・・。

さらに、卿は、その子孫が出来、実は延々と今日にも及んでいると語ります。

そして、マグダラは地名ですが、その後、ヨーロッパの各国語に入り、変化
するものの、受け継がれていきます。 英語のマグダレン、仏語のマドレーヌ、
独語のマルレーンないしマルレーネ、伊語のマレーナ等など、・・・。


否認の工作など

しかし、イエス・キリストが、実は結婚していて、その相手が聖女とされている
とは言え、元娼婦であり、子供まで設けていたと言うのは、その人性からすれば
不自然でないかも知れませんが、その神性からすれば、容易に肯んじえない
ことでしょう。 しかも、その血筋を引く子孫が居るというのです。

かくして、教会側から、様々な隠蔽の工作が行われてきました。 その意を
受けた、様々な騎士団や修道会などの手によって、・・・・。 それは、この
物語の世界でも続き、映画ではスリラーめいた工作の場面が幾つも登場し、
警察までが知らずとその一翼を担ってしまいます。 他方、それに対抗して、
真実を守ろうとする人々や勢力も居て、各種の工作は複雑多岐に渡ります。
冒頭の殺人事件に始まり、血なまぐさい事件が多発しながら、終章へなだれ
込んで行きます。 並行して、ダ・ヴィンチ コードによる謎解きも進みますが、
この物語には複雑怪奇で掴みきれない所があります。 それが、また、この
作品のねらい目でしょうか。


カソリックの反発など

イエス・キリストが夫婦となり、子供までが居た等と言う話は、フィクションと
断りながら、かなり丹念に、いろんな歴史的事実や史跡と事績を追って、制作
されている重みがありますからか、キリスト教世界、とりわけカソリック界から、
強い非難を受けているようです。 日本ではそれ程でもありませんが、ヨー
ロッパや隣の韓国ではかなりのもののようです。 フィクションと断った映画な
がら、宗教的な寛容と非寛容は、なかなか、難しい問題を内包しています。

特に、ヨーロッバやその周辺の地は、宗教戦争や宗教の内紛か激しかった
所です。 事は、そう簡単でないのかも知れません。 それでも、この原作や
映画を巡って殺傷事件や不穏な事態が生ずると言う事までは聞こえて
来ませんから、現代は、それだけ中世より進んだにかもしれません。
宗教戦争や宗教裁判の盛んな時代なら、とてもそうは行かなかったように
思われます。 今日でも、キリスト教・ユダヤ教と、イスラム教の間では、
大変な確執が続いていますからね。


本初子午線のこと

謎解きの一環として、バリの市内にある南北の経度の表示が出てきます。
何と、それが経度O度の本初子午線と言うのです。 これは、現代の地図の
世界では正しくありません。 その0度の線は、英国のグリニッジを通る
線として定められており、フランスのバリを通っていないからです。

しかし、経度をどこに定めるかについては、かつて主要各国、とりわけ
英仏間で争いがありました。 メートルを定義したのはフランスでして、
そのため、経度に沿った、北極と赤道の間の距離の測量が行われたのです。

従って、そのころに、フランスとしての本初子午線を定め、それを街路に
表示したのかもしれません。 そうとすれば、その事を見つけ出し、
映画の中に取り込んだのは、なかなかのものと思われます。


最後は、信ずるか否かに帰着する

物語の終わりに、ソフィー・ヌボーが「実は、・・・」と自らの
出自について気がつくようになる場面が出てきますが、これに対し、
行動をともにし、助け合ってきたラングドン教授は、「どう思う?」
と問いかけます。 ヌボーが答えないでいると、教授は、「信ずるか、
信じないか。 結局それしかない」と告げます。

これが、この映画のメッセージでしょう。 制作者や監督は、自らの
評価や考えを示さず、それは、観衆に委ねるというわけです。

それは、詰まるところ、信仰の世界に通じることでもありましょう。

聖母マリア(マグダラのマリアとは別人)が処女懐胎したこと、そして、
そのマリアから、神の子イエスが生まれたこと、イエス・キリストが
処刑され、死亡するが、復活することなど、科学者や技術者と言われる
人々でも、「自分は、それを信じます」と語るのを時折り聞きます。
それは、科学的実証の世界ではなく、信仰の世界だと考えられます。

この物語や映画も、そうした考え方に依っているようです。

いずれにしても、国際的にみると、かなり物議を醸していますが、なかなかの
物語であり、映画だと思われます。

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近づく裁判員制度:世の中の見方二つ:原因・結果と要件・効果
  Date: 2006-06-12 (Mon)

さて、今回は、法的なものの見方、捉え方について考えてみたいと思います。
裁判員制度が遅くとも平成21年の春までに実施されますので、
誰もが裁判員の当事者になる可能性があることを視野に、素人談義で
ありますが、ご参考になればと存じます。

題して、「近づく裁判員制度:世の中の見方二つ:原因・結果と要件・効果」
です。

ご笑覧下されば幸いです。


科学の見方・捉え方

科学では、原因と結果、つまり因果関係を重視するようです。
例えば、物が燃えるという現象があれば、何故か、どうしてそう
言うことが起きるのか、それを原因と結果という観点で捉えようと
します。 私どもが教わったところでは、諸々の学説が唱えられた
ものの、結局、それは燃える物質があって、それが酸素と化合すると
燃焼と言う現象が起き、結果として酸化物が出来るという現象です。

木は燃えますが、それは、炭素を主成分とする木の中の可燃物が、酸素と
化合して炎と熱を出し、結果として二酸化炭素(炭酸ガス)が出来る
ということだと教わりました。 私どもは、この熱を利用して
湯や蒸気を沸かすなど、いろいろ役立てていますが、木に限らず、
あまりに多くの炭素を含む物を燃やすので、炭酸ガスが増えて温暖化が
進むという問題に直面し、遂に対策が考えられ、世界的な合意の枠組みまで
出来ています。

更に、科学は、燃焼もその一形態である、この化合について、原子の
レベルまで詳しくみて、説明を試みます。 それも因果関係がきちんと
把握できる説明です。こうした、因果関係の捉え方は、科学の中でも、
例に挙げたような自然科学に限らず、社会科学や人文科学でも同様にれます。
行われます。 


法律の見方・捉え方

これに対し、法律は、要件と効果という見方・捉え方をします。
正式に言えば、法律要件と法律効果ですが、ここでは簡単に、
要件・効果としましょう。 もとより、法律の世界でも因果関係の
考え方は大事な役割をもっていますが、法律に特有なものと言えば、
この要件・効果の考え方でしょう。

私は大学の法学部に入って、この考え方を学んだとき、世の中には
優れた人々が居て、良くこうした見方・捉え方を考えつくものだと
関心致しました。 主に、こうした考え方は、近世から近代にかけての
ヨーロッパで発達したと言われ、日本でも明治以降の近代化の中で、
導入されました。

例えば、Aさんという人が、ある衣料品が欲しくなって、近所で
バザーをやっていることを知り、出かけたとします。 そこでは、
ちょうどBさんと言う人が、その物を売りに出していました。
そこで、Aさんは、Bさんに、「その物を欲しい」と言い、、
値段を聞いて交渉し、まとまりましたので、それを買いました。

こうしたことを、法律はその大事なところを取り出して、次の
ように考え、構成します。 Aの、「ある物を買いたい、この値段なら
買ってもよい」という意思表示と、Bの「その物を売りたい、その値段で
売ってもよい」という意思表示を、ともに要件と考えます。この二つの
要件がそろうと、AとBの間に、その物の売買契約が成立します。

この契約が成立しますと、Aは、その物を手に入れる権利が生じ、
代わりに、その代金を支払う義務を負います。一方、Bは、代金を
受け取る権利が生じ、代わりに、その物をBに引き渡し、その
物にする義務が出来ます。 つまり、契約の成立によって、
二人に、各々権利義務という効果を生じると考えるわけです。

日常では、こうした売買は、現実売買と言って、成立すれば、
その場で完結します。 それは、AとBの話がまとまれば、その場で
物と代金が交換され、各々の権利内容が実現し、義務が履行される
からです。


契約以外でも、要件・効果で考えます。

こうした考え方は、契約、つまり約束事に限りません。
例えば、Cと言う人が、うっかりDさんの持ち物を壊してしまった
とします。 これは契約ではありません。 民法上、不法行為と
いわれる事象ですが、これも、他人の物を壊すという不法行為が
起きますと、それを要件として、Cに、それによって生じた損害を
賠償する義務が生じると考え、Dに、その損害賠償を請求する
権利が生じると捉えます。 つまり、ここでも権利義務の
効果が生じると構成するのです。

このことは、私人間の契約等に限らず、犯罪が起きた場合も同じで、
やはり要件・効果で考えます。 例えば、殺人事件が発生すれば、
それを要件として、国家に、その犯人に対する一定の処罰権が
生じると考えます。 刑法の場合、この要件を、特に犯罪の
構成要件と言いますが、事の捉え方は、民事も刑事も基本的に
同じです。

最近話題になっている、村上ファンドのインサイダー取引でも、
その構成要件に引っ掛かるという様な表現が報道に現れていますが、
これも、証券取引法の該当する取り締まり規定が、刑法を中心とする
刑事法の体系に入るからでしょう。


法律上、無効とは?

このように考えてきますと、法律上無効と言えば、つまり、法律効果が
生じない、換言すれば、権利義務が生じないと言うことになります。
それは、通常、要件を欠くか、不十分だからでしょう。

例えば、売る意思も買う気もないのに、形だけそうしたことにしておこうと
言うような話があるとすれば、仮装売買であり、契約が成立していたとしても、
無効と言うことになります。 双方に権利義務は生じません。


条件と要件の違い

日常、良く、値段など条件が折り合わないなど、条件と言われる場合が
ありますが、これらは通例、正確には要件と言えるものです。 なぜなら、
売買で値段を幾らにするかは、その成立に欠かせない必要な決め事で
あって、値段の合意は要件の一つだからです。

これと違って、例えば、最初の例で、Aさんが「ただ、うちの子が欲しいと
言えば買うけど、まだ分からないの。 後で確認するから、それまで待って」
言い、Bさんが「ああ、いいよ。 それまで取っておいてあげる」と言ったと
します。 この場合、「うちの子が欲しいと言えば」というのが条件になり
ます。

この条件は、この売買の成立に欠かせない事ではなく、付加的に加わった話で、
これがなくても、売買は成立しうるものです。 要件の方はそうは参りません。


法律とは、主として要件・効果の体系です。

憲法に始まり、法律、政令、省令・規則、条例に至るまで、今日、膨大な
法体系が出来、さらに発展していますが、どんな複雑な法令であっても、
その内容は、主として、この要件と効果で構成されています。 事細かな
手続きも、実は要件なのです。 手続きをふめば、法的な効果がきちんと
得られ、それを欠いたり、怠れば、効果は生じません。


分析的視点と全体的視野

以上、科学と法律について、その見方・捉え方の特長を論じて来ましたが、
両者に共通するのは、分析的であるという点です。 これは、大変大切な
ことで、この分析的なアプローチで、科学も法律も大いに発達を遂げました。

特に、自然科学は、この分析を通して、現象の説明を可能にする理論を
生み、発展させ、その実験・観察と実証への努力が重ねられており、その
進歩は止まるところを知らない観があります。

でも、ただ、分析的だけでは不十分なのです。 大切なことは、全体的な
視野を失わないことでして、バランスの取れた、ものの見方・考え方の
大事さは、幾ら、強調してもしすぎることはありません。

例えば、病気の診療に当たって、分析的な西洋医学の進歩にもかかわらず、
全体的な視野を重視する東洋医学が見直されているのも、そういう
関係からだと思われます。 ある東洋医学者が、解剖の結果、
取り出された眼球を指さして、「これは目ではない」と言った有名な話が
あります。 解剖によって、医学的知見が素晴らしく発達したことは
事実ですが、「物を見る」と言うことが、眼だけでなく、視神経は
もちろん、脳全体や、そこに蓄積された情報・経験・ノウハウの
多くに関わっていることも、重要な事実だからです。

法律の世界でも、事案や事件に対処する際、法的な要件・効果の見方に
はめ込むため、複雑多岐に亘る事実関係の認識をおろそかにしたり、
常識や良識を欠いた構成をしたりすることは、避けるべきところでしょう。


裁判員制度の意義

ある範囲の刑事裁判に、普通の国民が裁判員として加わる制度が
本決まりとなり、平成21年からの実施に向け、準備や啓発が進められて
います。 その意義は、法律の適用に当たって、アマチュアが加わった、
全体的な視野や普通の人々の常識・良識が大切ですと言う観点から、良く
理解されるべきだと思います。

と同時に、裁判員制度は、普通の国民みんなに関わってくる、大切な公権力
行使への参加ですから、ともども、その自覚を持ち、良く考えたいものです。

ご一読、有り難うございました。


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いばらき大使 仲津 真治

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日本の原子力
  Date: 2006-05-22 (Mon)

いばらき大使の仲津真治です。 ご無沙汰しております。
初夏を思わせる暑い日があるかと思えば、連日梅雨のような日が続いたり、
気候が定まりませんが、如何お過ごしですか。

さて、この度、戦後日本の原子力研究開発の草創期から、
その中心を担ってきた茨城県東海村での研究開発の諸成果や
近年の新たな取り組みについて、見聞して参りましたので、
この機会に記してみたいと思います。 素人の浅薄な見聞では
ありますが、そこは御容赦いただき、ご参考になれば幸いに存じます。

併せて、見学の諸手配を御願いした方々や、いろいろと懇切に
御教示いただいたテクニカルアドバイザーの方に、この場を
借りましてあらためて感謝申し上げる次第です。


初めは原子力、その平和利用・・・・・・・・
アイゼンハワー米大統領の国連演説が始まり

世界初の原子力発電は、実験型原子炉によるものですが、
1951年(昭和26年)、アメリカで開始されました。

そして、1952年(昭和27年)、対日講話条約の
発効により、日本でも原子力の研究が解禁されました。

その翌年、アメリカの当時の大統領アイゼンハワーが
国連で「Atoms for Peace」と題する重要演説を行い、
原子力の世界的な平和利用の推進を訴えるとともに、
アメリカは、各国に原子炉を提供する用意があると
表明しました。

これを受けて、日本も果敢に動き、原子力関係の予算を計上、
1956年(昭和31年)には、政府に原子力委員会が
設置され、間もなく、日本原子力研究所(原研)が発足しました。

原子力の平和利用にバラ色の未来が描かれていたころですから、
原研の立地先を巡って、全国数カ所で盛んな誘致合戦が行われ、
結局、茨城県の東海村に決まりました。


原研の成果と応用・拡大

原研は、設立後、着実に成果を上げ、まず、アメリカから導入した
小型の研究用原子炉(一号炉)により、1957年(昭和32年)、
最初の臨界を達成、原子の火が灯ったと言われました。 次いで、
1960年(昭和35年)には二号炉で臨界、1962年(昭和37年)
には、初の国産原子炉で臨界を達成しました。ここで、臨界とは、
原子炉内の核分裂が持続的に制御された状態で起きることを
言います。

こうしたプロセスを経る中、各電力会社から派遣された多数の人々も、
海外からの分を始めとするノウハウや技術を習得、その集大成として、
各社が共同で作った日本原子力発電(原電)という会社が1966年
(昭和41年)に、東海地区の一角に原子炉の一種であるガス炉に設置、
本邦初の原子力の営業運転を開始しました。

並行して、京大始め、全国各地の大学に研究や実験用の原子炉が作られ、
大学レベルでの研究が進展、若き人材が育てられて行きました。

続いて、原電が福井県の敦賀に、新しい沸騰水型軽水炉の原子力発電所を
建設、1970年(昭和45年)に営業運転を始めました。 同じ年には、
関西電力が同県の美浜で加圧水型、翌年には東京電力が福島県の太平洋岸で
沸騰水型と、順次、原子力発電の実用化が進捗して行きました。

他方、研究を主とする原研から分離して、原子力平和利用の実用に向けた段階を
主に取り扱う動力炉・核燃料開発事業団(略称 動燃)が1967年(昭和42年)
に設立され、1977年(昭和52年)には、新たに開発した高速実験炉「常陽」
で臨界を達成しました。


暗転:海外での大きな事故の発生など

こうした経過で分かるように、それまで、内外とも順調に進んでいた原子力の
平和利用ですが、この後、大きな事故に見舞われ、世界的に不安を引き起こした
ため、安全対策の再点検や抜本的な強化の必要が叫ばれ、対策や対応が始められ
ました。 

最初の大事故は、アメリカのスリーマイル島の原子力発電所で、1979年
(昭和54年)で起きました。 原子炉の冷却水が失われ、炉心が溶けてしまった
と言うのです。 次いで、1986年(昭和61年)、当時のソ連のチェルノ
ブイリで、原子力発電所が大爆発事故を起こし、広範囲な汚染が発生、今なお、
その発電所を石棺と呼ばれる巨大な遮蔽物で覆わないと放射能による危険な
状態が続いていると言います。

これに対し、我が国の原子力発電所では、徹底した安全思想の下、安全のための
五重の装置・遮蔽構造の形成や慎重かつ厳しい安全第一の運転等により、こう
いう事態は避けられています。 でも、発電所ではないものの、動燃が開発した
実験炉である高速増殖炉「もんじゅ」で臨界に達する成果を上げながら(19
93年 平成5年)、ナトリゥムの漏洩が起きてしまいました(1995年 平成
7年)。 これで、高速増殖炉の研究開発は実質上、止まったままとなって
います。 また、1999年(平成11年)、東海地区にあるJCOと言う核燃料
を扱う民間会社で、手順を省略した雑な精製作業を行ったがため、臨界事故が
起き、人命が失われました。

このほか、電力会社においても、原子力発電所でのデータの改竄が行われたり、
蒸気漏れ事故で死者が出る事故が起きています。 大変、残念なことです。
世の中の雰囲気は、原子力にパラ色のイメージがあった初めの頃とは全く異なっ
ていて、まさに、危険を徹底して封じ込め、何重にも安全に制御すべき時代と
なっています。 原子力が化石燃料の使用を抑制して、温暖化防止など環境に
貢献出来るだけに、安全対策の徹底と創意工夫は、とても大事なことと思われ
ます。

と同時に、現在の原子力の発電での熱効率が三十%強に止まっている点は、
素材その他の面での課題があるようですが、火力発電が素材や様々な創意工夫
により、五十数%のレベルまで高められていることと比肩すると、大いに
改善の余地がある感じがします。 この辺りは、優れた研究開発成果を
上げてきた原研=現在の原子力研究開発機構に、なお頑張ってもらえる分野
なのかもしれません。


核融合の研究開発

既存の原子力の平和利用はウランなど重い元素の核分裂の世界に止まっているの
に対し、水素(重水素など)の軽い元素の核融合により、大きなエネルギーを取り
出そういう努力が世界各国で地道に行われています。 日本では、原研もこれを
担当し、茨城県の那珂市にある核融合研究所で、JT−60と言う装置を
使い、1980年代から研究を行っています。 

この2月の初め、同研究所は高圧のプラズマ状態(原子が分離し、これを
構成する電子、陽子、原子核などに電離している状態で、固体・液体・気体の
いずれとも異なる物質の第四態と言われます。)を世界最高の28秒間維持
することに成功したとのことです。 それは、国際間の合意で、遂にヨーロッパ
(国で言うとフランス)に建設地が決まった、国際熱核融合実験炉(ITER)で
予定される実験に貢献できると言われます。 

原子力は、核分裂の平和利用による発電が大量に実用化される時代になり
ましたから、世界も、その中で有力な位置を占める日本も、研究の主力を
核融合に移しつつあるのかもしれません。 そして、それは、長年月と膨大な
経費を要するものですから、国際的な共同取り組みが行われるようになったので
しょう。

その際、日本側の当事者は主に原研となるのでしょうが、そこは、その後動燃を
改組して出来た核燃料サイクル開発機構と統合され、2005年(平成17年)
10月に、独立行政法人「日本原子力研究開発機構」として発足しました。国の
行政改革の一環として行われた統合です。 その本部は、茨城県東海村に置かれ
ました。 


最先端分野へ

従来から、原研も核燃料サイクル機構も、重点は原子力の平和利用にありました。
でも、かなり以前から、原研では、東海地区以外での研究施設やその成果もあり、
新分野として、加速器による研究開発が検討されるようになってきました。

それは、電磁的に加速されやすい陽子を使って、大強度に加速し、各種の元素
の原子核にぶつけ、衝突で飛び出して来る様々の粒子を研究し、利用することに
よって、物質やエネルギーの本質を解明し、科学技術の発達・産業振興・環境改
善に役立てようと言うものです。

ところが、同じような構想は、同じ茨城県の筑波研究学園都市にある
「高エネルギー加速器研究機構(KEK)も考え始めていました。 そこで、
それぞれが別々に似たようなものを作るのは、ともに国の研究機関ですから、
国費の無駄遣いになりますし、用地面、人員面などでも問題が多いと言うことで、
調整が行われ、1999年(平成11年)に両者が共同で建設することに合意
しました。 その後、各々を所管する官庁である科学技術庁と文部省が統合し、
文部科学省となったことも後押ししたようですが、その年である2001年(平
成13年)に協定が結ばれ、本格的なプロジェクトがスタートしました。

八年を要する一期計画だけで約千五百億円かかる大事業ですが、統合による
節約は約五百五十億円に上るとのことです。


大強度陽子加速器計画(J−PARC = Japan Proton Accelerator Research
Complex)

広大な東海地区の研究施設用地の南部分を利用して、2001年(平成13年)
から、建設が開始されました。 加速用のリングで一番大きなものが出来る場所
の広さは、甲子園球場が数個すっぽり入ると言いますから、とてつもなく
大きな装置が出来ることが分かります。

直線形の加速器や二種のシンクロトロンなど諸々の施設は、2007年(平成
19年)から2009年(平成21年)にかけて順次出来、ビームテストも
行われる予定となっています。 現場の状況を見ると、工事は半分ほど
進んでいるとの印象を受けました。


光速に近くまで加速される陽子

さて、この巨大な加速器が出来ますと、陽子(Proton)は最大、光速度の
99.98%まで加速されます。 こんな速さになれば、アインシュタインの
理論で想定すると、質量は数十倍にまで大きくなっているといいますから、その
凄まじい速さと重さで標的となる原子核を打ち砕きます。 すると、そこから、
中性子、中間子、ニュートリノ、反陽子など二次粒子が飛び出してきます。 
これらの粒子をうまく取り込んで、それらで物を見ようと言うのが、この装置が
最も有用性を発揮するところのようです。


特に役に立つ中性子

中性子は、陽子と併存して原子核を構成しているときは安定していますが、
単独に在ると不安定で、電子を出して陽子に変わってしまうといいます。
そこで、この装置で中性子が多く得られるとすると、それは大変貴重です。
この中性子を物に当てると、X線(レントゲン線)では見えない所が見えて
きます。 それは、X線が原子の外側を回っている電子に干渉して像を
結ぶのに対し、中性子は、電子を通り越し、真ん中の原子核にまで
到達し、そこで干渉を起こして像を結ぶから、物がくっくり良く見える、
つまり、透過の度合いが深くなるというわけです。 例えば、X線だと
骨までしか見えませんが、中性子だと水分を多く含む内蔵などが良く見えると
言われます。

これは、当然、植物にも応用できます。 なぜなら、植物は水分を多く
含みますから、X線だと像が出来ず、中性子で鮮明な内部構造や成長の
様子を捉えることが出来る分けですね。

以上のことは、生命科学に役立ち、画期的な成果をもたらす可能性が
あります。


他の物質の構造も中性子で捉えられる

中性子は、原子核レベルという物質の奥まで、良く見せてくれますから、
例えば、コンビュータのメモリーの構造を明らかにし、その更なる
高密度化と情報処理能力の高度化を可能にする道を開いてくれるかも
しれません。

また、中性子だとリチゥムのような軽い元素まで見えるので、リチゥム
イオン電池の構造などの解明に役立ち、優れた性能を持つ大容量の電池を
作り、その小型化に資する事が考えられます。

更に、中性子は物を透過する能力に優れていますから、物を破壊せずに
検査することを容易にし、工業製品などの品質や性能の向上に役立て
られるでしょう。


環境改善にも貢献

環境問題の解決に燃料電池や水素自動車が大いに資すると予想されていますが、
高性能の燃料電池の開発や、水素貯蔵合金の構造解明による安全性の向上が、
中性子の活用で可能となってくれば、甚だ結構なことでしょう。


素粒子や宇宙の研究

中性子以外の粒子、例えばニュートリノなどを活用すれば、物質やエネルギー、
宇宙の根源に迫れるかもしれないようですね。 そう言えば、この東海地区で
得られたニュートリノを、約三百キロ離れた、岐阜県飛騨市のスーパーカミオ
カンデに送れば、その質量があるかどうか、あるとしたらどの程度かが
分かってきて、膨張しつつある宇宙の本質まで、疑義が解き明かせるかもしれ
ないと期待されています。

また、量子力学の解明しつつ在るところによれば、例えば、陽子や中性子は、
実は更に小さいクォークと言う素粒子の三個づつの集合体であると考えられる
ようになっているそうですが、そうした素粒子の本質や振る舞い、質量が発生
する仕組みなど、物質やエネルギーと認識されている現象の本質が明らかに
されていくことも科学的関心の対象となっているようです。何せ、クォークが
ある組み合わせで、それぞれ三つそろうと陽子や中性子が一個出来るのですが、
そのとき、質量が一挙に百倍になるというのだから、摩訶不思議です。 物の
重さの根源である質量についても、決定的なことが分かっていないのかも
しれません。 エネルギーの根源もそうかもしれませんね。


核変換による物質の転換

他方、原子力発電所や使用済み燃料の再処理施設から出る廃棄物には、高い
レベルの放射能をもった物質があります。これらは、放射能を厳重に
閉じこめて深い地層に埋設するとされていますが、その隔離期間は
数万年に及ぶ物があると言われます。 

もし、中性子を、これらの廃棄物に照射し、長く放射能を帯びる核種から、
短めに放射能が減衰する核種に転換できれば、例えば、数万年を数百年に
することが可能となれば、大助かりです。 

この研究開発や応用は、大いに期待したいものですね。


茨城県も関心

この加速器が立地する茨城県は、中性子の利用を産業界も加わり、幅広く研究
して、成果を上げ、新しい産業を興せればと考えているようです。 こうした
ことを、立地を受ける地元側で企画すると言うのは、なかなか良いことで、意欲
を感じさせます。 企業が立地すれば、雇用が生まれ、税収が上がると言う
だけの発想に比べ、前向きなものがあるように思われ、県内産業界等の知恵と
奮起が大いに期待されます。


国際公共財としての施設

最後に、このJ−PARCは、世界の主要な研究所や施設などと連携を取る、
国際性をもった開かれた施設になるようです。 他にも例の多い
共同利用施設ですが、とりわけ、その規模、先進性、分野別にみた
中心性等に、その強みと意義があると伺いました。 日本が、こうした
取り組みを通して、世界や時代の先導性を持つことができれば、その
国際的地位の向上や、ひいては外交力の形成にも資することとなり
ましょう。 是非、そうあってほしいものです。

以上、ご笑覧頂きまして、有り難うございました。

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いばらき大使 仲津 真治

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東京地底都市
  Date: 2006-04-13 (Thu)

いばらき大使の仲津真治です。 暫くです。  時折、雨や寒い日が
混じる陽春の候ですが、 年度も切り替わり、何かとご多忙の日々と
拝察します。 ご健勝で、御活躍なりますよう、念じております。

さて、過日、「東京地底都市」と題して、巨大な日比谷
共同溝のことを中心事例に、道路下の公共・公益の利活用について、
いろいろ記しましたところ、ある読者の方から、共同溝には
入っていないが、やはり凄い、道路下等の地下利用の施設がある
とのお話が参りました。 しかし、それは、地下鉄では
ありません。

伺うと、地域をまとめた冷暖房施設だとのことです。 早速、
連絡を取り合い、お勧めに従って、この程、見学させて頂き、
勉強して参りました。 以下に、そのあらましを記します。 


地域冷暖房施設のある丸の内オアゾとは、都心のオアシスです

その施設は、東京駅直ぐ近くのオアゾ(OAZO)というビル群を
要とした地区の地下四階にありました。 ちなみに、OAZOと言う
聞き慣れない言葉は、丸の内の0(まる)と大手町のO(おー)を
両端にして、その間、AからZまでの全てを繋ぐと言う造語ですが、
実は、エスペラント語の「oazo」が憩いの地「オアシス」の意味を
持ち、それに通じていると言うのです。 そこは、この地域に働き、
やってくる人々のオアシスにしようと言う場所なのだそうです。

さて、この地下深くにある施設は、とても大きく、この地域内に蒸気と
冷水を供給し、循環させるプラントが設置されています。 

では、その存在意義は何でしょう。 以下、順次、筆を進めて
参ります。


地域冷暖房とは・・・熱供給事業と言う仕組み

各ピルは、当然、それぞれ、冷暖房などの設備を必要とします。
ところが、それを全部、ビル内に自前で揃えようとしますと、
個々に冷暖房の機械装置とそれを収容するスペースを必要とするほか、
ビル内に煙突や大きな配管が要り、屋上には、その出口となる
排気等の設備が置かれ、かなりのスペースを取ることになります。

地域冷暖房は、これらを一カ所に集約、規模を効率よくまとめ、
もともと地域内の各ビルに必要となる機械設備や配管などを一挙に
不要化することにより、個々のビルの貴重な空間の有効利用を可能
ならしめるとともに、省エネルギーや環境改善に資することに主眼が
ある仕組みと申します。 地域をまとめて冷暖房という意味で、
この地域冷暖房という表現は分かりやすいものがあります。

もともとは、大規模ニュータウン(新住宅市街地整備)の先駆けと
なった大阪の千里ニュータウンで、昭和45年に住宅向けに導入
されたのが最初と言われますが、その後、根拠となる法制が整えられ、
法律では、熱供給事業と呼ばれることになりました。 昭和47年の
ことで、エネルギー分野では、電気・ガスに続く三番目の公益事業と
呼ばれています。


都市計画による、この仕組みの優位さ

この熱供給事業によって、ある地域一帯に蒸気や冷水の形にして
エネルギーを供給しようとしますと、それは、前述の法律による
認可を必要とし、その認可が得られれば、公益事業の位置づけを
受けることになります。 そして、それとともに、都市計画法によって、
都市計画施設の位置付けも受ける道が開かれます。 そこで、
都市計画施設としての決定を受ければ、この事業に要する空間
(例:地下の大きなプラントを設置収容する空間等)は、当該建物の
容積率の計算から外されます。 つまり、ビルの所有者は、建築する
際の建物容積から、この部分を外して、相当する分の容積を
他の有用な用途に使える分けですから、これは、建物利用上、大変、
有利なことになります。 

熱供給事業者のプラントを設置することになるビルの所有者が
受ける、このメリットは、間接的に、他から熱供給を受けることにより、
自ビル内の自前の熱供給施設が不要となる各ビルの所有者にも及ぶこと
になります。


何を供給するのでしょうか:その1、蒸気

地域冷暖房の仕組みで、一番分かりやすいのは、蒸気の供給です。
これは都市ガス(天然ガス)によって、水を熱し、摂氏180度で8気圧もの
高温高圧の蒸気にして、地下の配管を通して、各需要家であるビル等に
届けています。 各ビル等は、熱交換器等を通して、この熱を暖房や温水を
沸かす事などに役立てて、その後の蒸気・水を戻して参ります。 従って、
往路の蒸気管と還路の水管とがあり、その径は小さくなりますが、
熱エネルギー運ぶ蒸気・水は、きちんと戻ってくる仕掛けになって
いるわけです。 そして、還水は、再び熱し、送られることになります。 
この往還の間の熱収支がエネルギーの利用であり、これを元に、料金が
計算されるようです。

聞けば、アメリカでは、供給された蒸気は、使われた後、そのまま、
空中に飛散してしまう例があるとのこと、おおらかなやり方もある
ようですね。


何を供給するのでしょうか:その2、冷水

もう一つの供給物は、冷水です。摂氏6度から7度くらいの冷水を供給、
受水した各ビルは、これも熱交換器を通して、冷房や、熱を出しやすい
性質を持つOA機器の冷却に充てています。 この冷水も、各ビルでの
利用後、幾分暖まって戻ってきますが、往路と還路の管路の大きさは
実質変わらず、水温は摂氏11度から14度に上昇して還って来ます。 
この水温上昇による熱収支が、エネルギーの利用であり、これが
料金計算に用いられることは、蒸気と同じとのことです。

もどってきた水は再び冷やして、循環利用します。

この冷水をつくる冷却装置としては、まず、熱の断熱膨張の原理
(すきま風が冷える作用)を利用した、ターボ冷凍機があります。
これは、電気をエネルギー源としています。

別の冷却装置としては、吸収冷凍機と言う物が使われています。
こちらの方は、都市ガスをエネルギー源としていています。 こうした
二種類の冷凍機の併用により、電気とガスのどちらも使えるようにしておいて、
一防が万が一止まっても大丈夫にしてあるとのことでした。 

この吸収冷凍機は、素人の私には分かりにくいままなのですが、
真空中に水を放散すると、一挙に冷却現象が起きる原理を
使うと申します。 (確かに一気圧では摂氏百度で沸騰する水も、
気圧が下がると沸点が下がり、高山ではご飯が炊けないので、
圧力釜を使いますね。) この冷凍機は、この原理で得られた非常に
冷たい蒸気で、管路にある水を冷やし、その水を冷水として送ると
いう分けです。

ところが、この冷蒸気を代替フロンで吸収するようになっているのだ
そうですが、あまりに吸収が進むと、水分が増え、代替フロンの密度が
下がって、吸収効率が落ちるので、その冷蒸気(ないし水分)を放出させる
必要が生じて来ると言います。 そこで、別商品である高温高圧の蒸気を
使って熱し、放出させると言うことになると申します。

これは、熱供給事業者だけでなく、各ビルで、吸収冷凍機を
持っているケースがあるので、夏の冷房をかける時期には、
蒸気の需要も増え、その送量が大きくなると言う、面白い現象が
起きるとのことでした。


15箇所もあるプラントと管路を入れるトンネル 

このオアゾ地下にプラントを持つ熱事業者は、大手町、丸の内、
有楽町、内幸町と言う、まさに東京都心地区を対象として事業を
展開しており、オアゾ下とほぼ同様のプラントを計15箇所もち、
建物敷地内と道路下に大きいトンネルを設け、電気とガスを熱源に、
蒸気と冷水の供給を行っているとのことです。

こうした熱供給事業は、約二百五十社と言われるガス会社より
少ないものの、十社である電力会社より、かなり多い九十五社を
数えており、全国の主要な大都市やその郊外で仕事を行っていると
申します。

欧米先進国、とりわけ北欧諸国では、この事業は高い普及率を誇り、
その都市部では5割から8割に及んでいると言われます。

我が国でも、大都市のみならず、住まいや経済社会諸活動を
効率的に進める観点からコンパクトシティと言う考え方が、
地方の中小都市で関心が持たれ、実践されつつあります。
地域冷暖房は、それに適する仕組みや事業であろうとの
印象を持ちました。 短時間でしたが、今回の見学から得られた
一つの実感です。


地域冷暖房のメリット

さて、地域冷暖房は、始めの方で記したように、建物や空間の有効活用の
みならず、省エネや環境改善に役立つとのことですが、今回のケースを
元にしながら、ここで、そのことを、もう少し触れておきましょう。

まず、建物個別に冷暖房の熱源設備をもつ場合に比べ、地域で一括の
装置を持ち、管理することにより、硫黄酸化物や窒素酸化物の
排出量が、いろんなケースを見ても、相当減ることが知られています。

同様に、建物個別の場合に比べ、規模の利益と運転効率化が貢献して、
一次エネルギー使用量のベースで12%から16%削減する効果を上げていると
申します。 これは、地球温暖化の主原因とされる二酸化炭素の削減に
寄与していることにもなります。

また、建物個別の方式の場合に必要となる屋上冷却塔や煙突等がなくなり、
都市景観の改善に資するほか、屋上緑化のスペースを増大させ、現に
緑化が進めば、都市熱の蓄積によるヒートアイランド現象を緩和させて
いくでしょう。

加えて、熱供給事業者の専任のスタッフによる24時間管理やノウハウの
蓄積・発展も、相応の経済性を持つものと思われます。


諸課題


こうして見てくると、良いこと尽くめの地域冷暖房事業のように
思えますが、ことはそう簡単でないようです。

それは、まず、熱供給事業の個々の需要家である建物側にとって、
個別に行うか、その事業からの供給を採用するかは、各々の
経済性や効率性などの諸条件を見て、検討することになります。
これは一般論だけで、直ぐに結論が出る問題ではありません。
なかなか、厳しい折衝になるようです。

また、電気やガスなどのエネルギーを使う、個々の機器の
機能がどんどん良くなり、効率性が向上し、新型が登場し、
また、小型化して参りますと、大規模なプラント型である
熱供給事情との選択・競合は高まって参りましょう。

でも、これらの選択・競合は排除すべき事でなく、それらが
世の中の質を改善し、社会や経済を発展させていくわけですから、
各々の努力や創意・工夫が望まれるところです。

更に、視野に入れておくべき事ですが、この熱供給事業が
法律による公益事業であるのみならず、都市計画で決められる
施設なのに、道路の地下利用に関して、単独で占用許可を得て
行っていて、共同溝等に加わっていないことです。

この事業は、建物の立つ敷地を活用して、地下に施設を造り、
トンネルを掘って、管路を収容しているのですが、道路下を
縦断型で使っている場合があり、道路横断型の利用であっても、
個々の需要家に電線類や管類を繋ぐための、支線のライフラインを
収容する供給管共同溝の仕組み・事業例が、道路下にあることなどを
考え合わせますと、地域冷暖房事業についても、共同溝に参加する道が
開かれるよう、検討が為されて良いように思います。 それは、
また、道路財源が社会に活かされる有用な方策の一つになってくる
道ではないかと思われますが、如何でしょうか。

以上、ご一読頂き、有り難うございました。 ご参考に
なれば幸いです。

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いばらき大使 仲津真治

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WBC
  Date: 2006-04-13 (Thu)

春いよいよの候となり、御健勝の御事と存じます。 

さて、その春の節目とも言うべき春分の日(日本時間)に、ワールド・
ベースボール・クラシックという野球の世界大会で、日本が
決勝戦に進出、対戦相手の強豪キューバを10対6で下し、優勝しました。

マスコミ始め、国内外で「野球世界一 日本」と大変な盛り上がりの
です。やはり、大変おめでたいことで、王監督や選手の中心と
なったイチロー外野手始め選手各位と関係者の皆様に心から祝福したいと
思います。 また、この大会に参加した各国のチームが、それぞれの国を
背負って戦い、真剣勝負を展開し、球趣を大いに高めたことは、賞賛に
値すると思います。

そこで、この大会の意味や成果、そして課題について、こういう見方が
あるのではないかと考えながら、御教示頂ければと存じます。
ご笑覧下されば幸いです。


野球の国際化とレベルの接近 

この大会の主導者はアメリカの大リーグ機構と選手会ですが、同国は
野球の発祥の国であり、世界で最も強いとされる、プロの大リーグを
擁してきました。 それを構成するアメリカンリーグとナショナルリーグの
各優勝チームが覇をかけて戦う試合は、最長7連戦に及び、ワールドシリーズと
呼ばれます。 アメリカ一国なのに、そう言う呼称を使うところに、その
自己認識が良く察しられるというものでしょう。

今回が初回のワールド・ベースボール・クラシックでは、サッカーと同様に、
各選手が母国や出身国に戻ってチームを編成し、国別対抗となりました。

すると、アメリカは、そのもくろみに反し、同国チームが韓国に敗れるなど、
あまり振るわず、準決勝にすら進出できませんでした。 その韓国は、
一次・二次リーグと6連勝し、その中で日本に僅差ながら連勝しました。
カナダとメキシコはともにアメリカに勝ちました。 米大リーグの現役選手を
ずらりとそろえたドミニカは、準決勝でキューバに敗れました。

日本は、アメリカとの試合で、中立国ならぬアメリカの審判の判定変更などに
泣かされ、惜敗しましたが、一次・二次までの点差の点で優位となり、
かろうじて準決勝に進出、今度は韓国に大差で雪辱して、遂に決勝に出場、
キューバと好試合を演じ、今回のタイトルをものにしました。

こうしてみると、各国の戦力がともども高水準にあり、実際に試合をして
みないと、結果は分からないくらい接近していることが良く分かります。 
つまり、それだけ、野球が国際化した分けで、発祥国であり、大リーグを
擁するアメリカが圧倒的に優位であることは、もはやないと言うことが
実証されたと言えます。 大リークが初めて本格的に参加した国際野球大会、
それがワールド・ベースボール・クラシックの大きな意義と言われますが、
各国のレベルの接近で、こうした大会の機は熟していると見て、開催に
踏み切ったと言われる主催米大リーグの判断も妥当と言えるでしょう。 
また、この各国の水準の接近に、米大リーグが外国選手を相当入れることに
より、また、日本のプロ野球もある程度同様のことで、相応の貢献をしている
ことも事実でしょう。

と言うことで、各国のチームには、米大リーグや日本のプロ野球の選手が混じり、
日本や韓国のようにプロのリーグを持つ国が程々にあり、チームを編成しました。
さりながら、多くはアマ中心でした。 ただ、その中で、アマの世界一の強豪と
言われるキューバは、一党独裁の社会主義国ですから、それは国によって
支えられたステートアマ、つまり国家プロと呼ぶのが実態に即しているのでは
ないでしょうか。


しかし、参加国は少ない・・・サッカーとの違い

ワールド・ベースボール・クラシックの参加国は、南北アメリカ、アジア、
ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアと五大陸の全てに亘り、広範囲でした。、
しかし、国としてみると、主催の米大リーグの招待を受けて参加したのは、
16ヶ国に止まりました。 全世界で二百余りの国・地域で行われる
スポーツであるサッカーとの違いが大きく出ています。 

これには、ボール一つで出来るサッカーなどに比べ、野球がグローブや
バットなど多様な道具を要するため、費用がかかり、ルールも複雑であると
言う理由が挙げられています。

ただ、野球を行う国や地域がそんなに少ないかというと、実はそうでもなく、
国際野球連盟、International BAseball Federation(IBAF))と言う、世界各国
の野球協会が加盟している国際組織があり、昨年現在112の国と地域が
加盟しているのです。ちなみに、IBAFは、昭和13年(1938) に設立され、
スイスのローザンヌに本部があります またIBAFワールドカップ や
世界大学野球選手権等などを主催ないし協賛したり、夏季オリンピックの
野球競技にも関わっています。

なのに、その影響力は少ないのが現状です。 アメリカの大リーグ機構が加盟
していないこと等が、その主な理由と言われます。 加えて、これらの加盟国の
中でも、野球が盛んな国は限られている現実がありましょう。 どこでも
サッカーをやっているのとは、やはり違うのです。

とは言いつつ、、平成4年(1992)のバルセロナ大会から、野球はオリンピック
の公式種目に入りました。 日本も参加しましたが、その後、回を重ねるうち、
四回目のアテネ大会に至り、日本は初めてプロを主力とする、長嶋ジャパン
言われたチームを編成しました。 実際は中畑ヘッドコーチが率いた、
そのチームは優勝をめざしましたが、銅メダルに止まりました。

ではアメリカはと言うと、どのオリンピックにも大リーグは参加しなかった
のです。


野球オリンピックから外すと決まると、アメリカ大リーグが動き出した。

しかし、この後、事態は大きく変化を遂げます。 昨年、国際オリンピック
委員会は、コスト増大に対処するため、増え続ける競技の種目を押さえようと、
幾つかの種目の除外を検討、議論と投票の結果、野球やソフトボールを
平成24年(2012)のロンドン大会から外すことを決めました。 野球や
ソフトボールは行う国や人々が少なく、野球等を行わない国では、オリンピック
の時しか使わない球場を建設することになり、負担が大変だと言うわけです。

かくして、野球等は、平成20年(2008)の北京大会をもって打ち切りという
ことが濃厚となりました。 除外理由や一度決まったことの変更は容易で
ないことを考慮すると、北京が五輪野球の最後になることが、十分予想される
情勢となりました。

そして、この頃から、アメリカ大リーグの動きが出て来たように思われます。 
構想は六年前からも温めていたと伝えられていますが、この度の、ワールド・ベ
ースボール・クラシックの開催に向けた動きが、表に出て本格化してきたのは、
この野球等除外の五輪決定の頃からと見て、当たらずとも遠からずと
思われます。

考えるに、野球発祥の国アメリカとしては、ここで、世界的な野球の大会を、
アメリカ主導により、各地の予選、そしてアメリカで本選をと言う仕組みで
行うという考えを固め、具体的に取り組み出したと思われます。 セリグ・
米大リーグ・コミッショナー始め米国関係者は、表向き、そう言うことは
言いませんから、推測の域を出ませんが、十分考えられることと思われ
ます。


サッカーと野球

ここで参考になるのは、サッカーのケースです。 サッカー発祥の国は、
イギリスであり、いまでも大変盛んですが、このイギリスに国際的な
サッカーの中心組織は在りません。 その組織は、何と英語でなく、
フランス語で、「Federation Internationale Football Associationj」
(FIFA 国際サッカー連盟 Federation の e は、e の上に ' のような
ものが付くのですが、パソコンのソフトの制約からか表示されておりません。 
悪しからず、ご了承下さい。)と言われ、明治37年(1904)に結成、
その本部はスイスのチューリッヒに置かれているのです。 イギリスは、
これを不満として、種々のやり取りの結果、英国としてでなく、イングランド、
ウェールス、スコットランドなどの地域で加盟することになったとの話も
聞きました。 

これに加え、国際野球連盟(IBAF)は既にあり、これまた、スイスに
本部があるのです。 かくして、野球の老舗アメリカの大リークが、
五輪除外のこの機をとらえ、野球発祥のアメリカに、アメリカが主導する
世界大会の仕組みを作り、定着させようとしたことは、十分考えられる
ことと思われます。 クラシックには、野球用語としてワールドシリーズ
と言う意味があるようですが、野球の伝統や最高のものと言うニュアンスが
込められている印象すら受けます。

物事は初めが肝心ですから、今を好機とみて仕掛けたアメリカの大リーグ
には、やはり、それなりの意図と戦略があったと見るべきでしょう。


開催までの難航と問題点

もっとも、アメリカのこの動きが各国の支持を得て、事が滑らかに
進んだわけではありません。 国際的な組織が主体でなく、米大リークが
主催者であること、開催時期、費用の負担と収益の配分など諸々の点で、
随分もめたようです。 現に、日本のプロ野球にも参加に慎重な意見が
多かったようですが、結局、日本など16ヵ国が参加することとなり、開催に
漕ぎ着けました。

開催されたにしても、予選などの枠組みの組み方、日韓両国が三度も
戦うことになったような偏り、どの試合もアメリカ人審判によることなど、
諸々の問題が発生しました。 アメリカ主導ですから、これらのことの
大半は、起こるべくして起こったのかもしれませんが、やはり、大きな
課題として、捉えるべきものでしょう。


今後と日本

このワールド・ベースボール・クラシックが定着するのか、国際野球連盟との
関係はどうなるのか、やり方やルールは今後どうなるのかなど、多くの疑問や
課題が出てきます。 コストの負担、収益の使い方や配分も、プロの
参加する野球ビジネスで在る以上、関係者の一大関心事でしょう。 

ただ、アメリカは、初回の今大会の主唱者であり、主催者でしたから、
これからも、大きな発言力を持つに違いありません。 また、今回の参加
各国はもとより、今後、新たに出てくる国々や地域も、いろいろ主張する
でしょう。 その中で、日本は初のタイトル保持国として、国内の意見を
良くまとめ、スタンスをはっきりさせて、主張すべきは主張し、公正・公平で、
面白い迫力在る野球の国際競技の場を作っていくことに寄与すべき
と思われます。 日本人はルール作りが苦手と言われますが、ただ、
決まったことに従い、あとは「汗と涙と根性で」というような取組姿勢では、
通用しません。

ワールド・ベースボール・クラシックの次回は、3年後の平成21年(2009)と
言われ、その後は四年ごとになるという話まで聞きます。  

果敢に大健闘し、初代タイトル保持者となった日本ですから、その発言力も
相応のものがあるはずで、責任も重いと申せましょう。

以上、お読みいただき、有り難うございました。 ご意見やご感想を
お寄せ頂ければ幸いです。

_________________

いばらき大使 仲津真治

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シリアナ
  Date: 2006-03-18 (Sat)

>仲津真治です。 暫くでございます。 
>
>陽春の候と言っても良い温かい日が訪れる今日この頃ですが、
>内外とも多事多端です。 そうした中、御健康に留意されて、御健闘、
>御活躍されますよう、心より念じております。
>
>さて、原油高騰の折り、大変気になるテーマの映画が公開されていますので、
>時間を見つけ、鑑賞してきました。 そのタイトルは「シリアナ」と言い、
>非常に複雑で、一つのストーリーではとても括れない映画ですが、
>アメリカなどが関わる、実際にあった類似の諸事実を一つの物語の体系に
>取り込んだものだけに、恐ろしく迫力があります。 今回は、この
>映画を契機としたお話を記します。 ご笑覧下さい。
>
>
>タイトルの「シリアナ」とは、中東の仮想の国
>
>まず、題名のシリアナは何かと言うと、一応、国名となっています。
>しかし、シリアナと言う国は実在せず、映画の中でも、誰もその国名を
>語りませんが、中東にあるシリア・イラク・イランを包括したような
>イメージの仮想国で、アメリカのシンクタンクで使われている
>業界用語と申します。 だが、何と、その原形は、第一次世界大戦で
>イギリスとフランス(実は、ロシアも加わっていた)が結んだ、ドイツ側の
>敵国トルコを追い出した後の中東の分割で合意したサイクス・ピコ協定に
>在ると言うから驚きます。 
>
>
>サイクス・ピコ協定等など
>
>第一次大戦は、典型的な帝国主義列強の、資源、領土、覇権を
>争う大戦争でしたが、一方の主力は、英仏露の三国協商を主軸とした
>国々で連合国と呼ばれていました。 他方は、ドイツやオーストリア・
>ハンガリーの同盟を主軸とする国々で、少数派で枢軸国と呼ばれて
>いましたが、当時のトルコはオスマン・トルコと呼ばれる帝国で、
>独墺側の陣営に属していました。
>
>その版図は広大で、今のトルコの領域(ほぼ小アジア半島に限定)に
>止まらず、今日のアラブの領域に広く及んでいました。 
>
>英国側は、このトルコを倒すため、アラブ人を味方につけようと、
>フサイン・マクマホン協定(1915)と呼ばれる協定を結び、戦勝後の
>アラブ人の独立を約束します。 有名なアラビアのロレンスと言う
>イギリス人がアラブ解放の理念に燃え、アラブ人の遊撃隊を編成、果敢に
>戦うのは映画にもなっていますが、ロレンスが、こうした協定のことを
>知らされていたかどうかは、定かでありません。
>
>その一方で、英国は、ユダヤ系の金融資本の協力を得るべく、パレスチナに
>ユダヤ人国家の建設を約束します。 時の外相によるもので、その名を取り、
>バルフォア宣言(1917)と呼ばれています。
>
>この二つの間には、当然相容れない所があります。 そう、英国は
>秘密外交で二枚舌を使ったのです。
>
>更に、驚愕させられるのは、始めに述べた、サイクス・ピコ協定(1916)の事で、
>それは、トルコを負かした後の中東を、 英仏などで分割・支配する内容の
>ものでした。 この中で、パレスチナは国際管理地域にするとされていました。
>
>結局、英国は大戦を勝利に導くため、何と三枚舌を使ったことになります。 
>これは、その後、中東に紛争・混沌をもたらす、大いなる契機になったと言われます。
>
>ただ、これは英国に限らず、帝国主義時代には、どの列強も虚々実々の
>やり取りの中、似たようなことを行っていたのかもしれません。
>
>
>第一次大戦後の中東は?
>
>さて、第一次大戦は、ロシアで革命が起き、連合国の陣営から離脱敗退した
>にもかかわらず、アメリカが連合国側に立って参戦したこと(1917)が大きく
>貢献、連合国の勝利に終わります。 その一環として、トルコも敗退、
>オスマン帝国が崩壊しますが、その後の中東は、結局、サイクス・ピコ協定で
>英仏が約束したような姿に近いものになりました。
>
>トルコの支配が無くなり、国も何も無いわけですから、英仏が大体合意して
>いたような線が引かれ、国のようなものが作られました。 今日のレバノン・
>シリア辺りはフランスが押さえ、ヨルダン・イラク・クウェィト辺りは
>英国が押さえたのです。
>
>こうした経緯を見ると、シリアナという国を、仮想国であれ考えて、用語として
>使うというのは、決して荒唐無稽でないことが分かります。 
>「シリアナ」の原形が、英仏のサイクス・ピコ協定にあると言うのは、
>そう言う意味のようです。
>
>ちなみに、アラブは、主として、かつてのイスラム帝国(昔、サラセン
>帝国と教わりました)の版図に広がるアラブ人の世界ですから、一つの国と
>いう観念があり、フセイン元大統領のように、各国の指導者や政党の中には、
>最終的に自国も解消、大アラブで統一すると言う意識があると言われます。 
>皆、アラビア語を話すのに、今日、約二十もの国に分かれていますが、列強に
>よって、その支配地域が線引きされ、それぞれが独立国になっている面が、
>やはり、あるようですね。
>
>
>さて、映画シリアナでは?
>
>この映画の話に戻しますと、アメリカのCIAなどの政府機関、
>その工作員、元同僚、アメリカの巨大な石油企業、同国の新興石油企業、
>それらの幹部、フィクサーのような法律事務所の代表、その下にいる
>腕利きの弁護士、アラブの王族達、その中の啓明な王子、その協力者
>である有能なアメリカ人コンサルタント、パキスタンからの出稼ぎ
>労働者(この者達は解雇され、彼はイスラム原理主義に傾倒、最後は
>自爆テロリストとなります。)、 イスラム神学校、中国の石油企業の幹部と
>思われる人物等などが登場します。
>
>ただ、この中で、国王が賢明でなく病弱な人物であり、その後継を
>巡り、優秀な長男と派手を好む次男の争いなどが描かれますが、
>それが、どの国なのか、「シリアナ」なのかどうかも分かりません。
>
>それにしても、中東という大油田地帯ですから、ヨーロッパ各国や
>日本など多くの国が石油資源を依存し、関係のあるところなのですが、
>それらの国がほとんど出てこず、中国が、アメリカの巨大石油企業より
>有利な条件を出し、採油の契約を得る国として、登場して来ます。
>この辺りが印象的で、まさに、現代世界を象徴している感がありますね。
>
>物語の場所は、アメリカ、ヨーロッパの各国、アラブの国々、ハタミ
>大統領時代を思わせるイランなど各地を転々として、めまぐるしい
>ばかりです。
>
>話される言葉は、大半英語ですが、アラビア語などがどんどん
>使われ、それらを母国語とする人々が自然に聞ける言葉に
>なっていると言うのですから、たいしたものです。 かつて、
>日本人が登場するアメリカ映画で、その者が、妙な日本語を
>しゃべっているのを見さされてきた経験から言えば、アメリカ映画も
>進歩したと言うべきでしょう。
>
>
>アメリカの石油にかける執念と、その行動を批判する自由
>
>登場人物がやたらと多く、また、いろんな話が、それぞれ、別個に
>進行し、物語の展開が分かりにくいまま、映画が進みます。
>そして、終わり近くで暗殺場面や自爆シーンが出て来るのですが、
>全編を通して、アメリカという国の、石油に掛ける執念の
>ようなものが感じられるとともに、アラブやイスラム教との
>埋めがたい溝・乖離のようなものを感じさせます。
>
>そうした中で、この作品の迫真性を高めている、大きな要因は、ロパート・
>ペアと言う元CIAの工作員が、自らの体験を「SEE NO EVIL」
>(原題 邦訳は「CIAは何をしていた?」  その工作と謀略の現実を
>生々しく描き、全米を騒然とさせたベストセラー)が在るからでしょう。
>
>このペアがモデルとなったと思われるのが、ジョージ・クルーニー演ずる
>ボブ・バーンズであり、また、ベア本人も、CIA要員として、バーンズを
>尋問する役柄で出演しています。 この映画の脚本は、この本や、ベアが、その
>工作を通して得た人脈による諸人物を監督に紹介、それらの話をもとに
>書かれたようですから、フィクションながら、迫真の映画に仕上がったと
>思われます。
>
>さて、アメリカの機関の謀略や工作などを題材とするので、「この映画を
>反アメリカ的と思うか」と聞かれて、クルーニーは、「いや、むしろ
>アメリカ的な作品と思っている」との趣旨の答えをしています。
>それは、アメリカが疑問を投げかける自由をもった国であり、
>それを行うのは、権利であり、義務だと言うのです。
>現に、この映画が作られており、政府等の規制を
>受けておりません。
>
>ここが、アメリカの凄いところです。 自由の国であり、
>それが民主主義の基礎となっています。
>
>また、有能な王子のコンサルタント役を演じた、マット・デイモンは、
>「アメリカ人は、世界の他の国の人達から、どうして、こんなことも
>知らないんだと思われている」と言い、「アメリカ人は自分の国の
>していることを知り、世界情勢のことをもっと知るべきだ」と言う
>趣旨のことを語っています。 
>
>これも本当のことで、大変大事なことでしょう。
>
>最近、共産党独裁の国である中国で、農民などの不満が鬱積、抗議
>行動や暴動が多発しており、当局の言論弾圧が非常に厳しくなっていると
>報じられていますが、これに対し、自由・民主主義の世界に属している私どもは、
>アメリカなど、同じ自由・民主主義の価値と体制を共有する者として、
>この大切なことを良く認識し、実践すべきと思われます。
>
>
>石油資源を特別扱いしないこと
>
>もう一つ、大事なことがあります。 
>
>戦後六十年余り、戦争や紛争・武力行使がなくなった分けでは
>ありませんが、第一次や第二次の世界大戦のような大戦争は
>起きなくなりました。 
>
>これは、単に偶然ではなく、暁光でもありません。 いろいろある
>理由の中で、ここで関係する大事なことは、資源やエネルギーなどを
>巡る諸国・諸勢力間の争いをなくするため、世界全体を大きな経済の
>枠組みの中に入れ、貿易を基本的に自由にし、市場で成立する
>価格によれば、誰でも、どの国でも、その資源やエネルギー等を
>売り、買えるようにしたことと、それをお金の面で支え、円滑にする
>仕組みを、きちんと整備し、運用してきたことです。 前者は
>当初GATTであり、今日ではWTOに発展していますし、後者は
>IMFや世界銀行などの世界の通貨体制の仕組みです。
>
>もし、石油が、こうした自由な経済の仕組みから離れ、特別な
>扱いを受け、ブロック化や囲い込みなどの対象となれば、問題が
>起きてくるでしょう。 石油が止まり、入らなくなったりすれば、事は
>重大化します。
>
>かつて、アラブの産油国が原油の禁輸を行い、世界は大混乱に
>陥ったことがありますが、その後、NYMEXなどの市場が
>整い、原油も通常の商品と同じように取引されるようになりました。
>
>それでも、その相場に「何故、そうなるの?」という疑問が良く付くようで、
>いろんな力や意思が働いているようですが、基本は市場
>と言うところに在ります。 
>
>この映画が、制作されたアメリカだけでなく、日本や世界各国、
>各地で上映されて、人々に、自由と資源・エネルギーに関わる
>仕組みの大切さについて、認識が広がり、深まれば、この映画の
>意義も生きてくると思われます。
>
>有り難うございました。
>
>_________________
>
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>
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博士の愛した数式は、おいらーの公式
  Date: 2006-03-08 (Wed)

仲津真治です。 暫くです。 3月に入ると、早や陽春を思わせる日が
やってきて、とても、うきうきします。 そして、程なく年度替わりとなり、内外とも
多事多端の中、一段と変化が起きて参りますが、御元気にお過ごしのことでしょう。

さて、この春の季節に向いた物語が書かれ、最近それが映画になりましたので、
何とか時間を見つけ、行って参りました。幾人かの方に勧められましたしね。

この映画のテーマは、何と、映画には不向きと思われる数と数学なのです。
これには、感心し、驚きました。 原作にも映画にも大変な才能を感じます。

なお、この拙文には、数式を著すため、WORDの簡単な添付資料が
ございます。 是非、ご参照下さればと存じます。


人と語るすべに、数を使う博士

主人公は博士、数学を専攻する本当の博士なのですが、寺尾聡が
演じています。 資産家の義姉の住まう一軒家の離れで、一人
暮らしをしていますが、ある日、その浅丘ルリ子演じる未亡人の
義姉の計らいで、家政婦がやってきます。 深津絵里演じる、その
女性は綺麗で明るく「家政婦です。こんにちは!」と玄関で挨拶します。
が、応答無く、やがて、ぼそっと現れた博士は、いきなり、「君の靴の
サイズは幾つかね?」と尋ねます。 家政婦が「24です。」と答え
ると、博士は、「ほう、4の階乗だね。潔い数字だ」と語ります。

ここに、階乗とは、正の整数を1から順に当該数まで掛ける計算の
仕方で、4の階乗とは、1x2x3x4ですから24になります。
ちなみに、5の階乗は、1x2x3x4x5ですから、120と
ぐんと大きくなります。

博士は、こうして、人とやり取りし、会話と間合いを保とうと
するのです。 自分の優れた数学的な知性や直感と、普通の人々との
折りあいを、そのようにこなす術をいつの間にやら、身につけたの
でしょう。


同じ事を繰り返し言う博士

翌日、その家政婦が博士に朝の挨拶をしますと、また、靴のサイズを
聞いてきます。このやり取りが二、三度繰り返されるので、家政婦も
「24です。4の階乗です」と言うようになりました。

そう、博士は記憶が駄目になっているのです。 数年前、自動車事故に
遭う前の記憶は極めて鋭く、多岐にわたり鮮明ですが、その後は、新しい
記憶が80分しか持たないと言うのです。 当然、前日に会った人の事や、
そのやり取りの中身はすっかり忘れています。 この事故には、義姉も
被害者となり、杖を突く毎日です。


ルート君の登場

今度の家政婦は、気むずかしい難物の博士ゆえに何人も入れ替わった後に
来たのですが、軽快に、かいがいしく働きます。 事情あって彼女は、
一人で男の子を育てているのですが、あるとき、その事が博士に知れます。 
博士は「それはいかん。連れて来なさい」と言い、その十歳になる子が
やってきます。 博士は、その子をとても可愛がり、頭のてっぺんが平らな
ことから、「ルート」と名付けます。 また、ルートは、√ であって、
どんな数字も優しく包み込むとも言うのです。

この√ 君は、博士の下、数と数学が好きになり、やがて、数学の先生となって、
生徒を教える立場になります。 「起立、礼」で始まる第一回目の授業の時、
先生は、「なぜ、自分がルートと呼ばれるようになったか」を話し、博士との
いろんな思い出を語ると言う流れで、この物語は始まり、進行します。


いろいろ、数について語る博士

博士は、あるとき、家政婦に「君の誕生日はいつだね?」と尋ねます。
彼女が「2月20日です。」と答えると、博士は、220とつぶやきながら、
自分の記念品の腕時計に刻まれた「284」という数字を示し、何か分かる
かねと聞きます。 いぶかる家政婦に、「220と言う数字の約数を全部足すと、
284になるということを教えます。 1+2+4+5+10+11+20+22+44
+55+110=284と言うわけで、賢い家政婦は計算を間違わず、284と
なることを確認します。

すると、今度は284の約数を、142+71+4+2+1として計算させ、
220になることを確かめさせます。 驚く家政婦に、博士は、こうした関係に
ある数字を友愛数というと語ります。 何という不思議、博士はめったにない
組み合わせと説き、1184と1210もそうだと言います。 さらに、家政婦
は、1866年、日本の幕末の頃に、パガニー二という人が、この友愛数の
ことを見つけたのだが、僅か16歳だったと聞かされ、もっと驚きます。


孤高の素数

数の話題は、各分野に及びます。 1と、その数字自身でしか割れない数字が
あります。 2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、・
・・ と言う具合に続きます。 博士は、これらの数字は、本来のその姿の
ままと言う意味で素数だと言います。 約数が無く、それだけで自立している
分けですから、独立自尊、言い換えれば孤高の数なのですが、考えれば直ぐ
分かるように、無限に存在します。 しかし、どういう風に出現するのか、
まだ、その法則がわかっていないのだと博士は語ります。 そのうちに、
大数学者が現れ、その法則を見いだすかもしれませんが、素数が個々に現れる
様子をみていると、そもそも法則性など無い気もして来ますね。


阪神ファンと江夏投手の背番号

あるとき、博士とルート君は野球をすることが分かり、家政婦と併せて、
みんな阪神ファンだと言うことも判明しました。 「もめなくて良かった」
と家政婦が嬉しそうな声を出します。 すると、博士は、喜んで江夏投手の
話をし、その背番号が28で、それが完全数なのだと言います。 完全数とは、
その約数を全部足すと、その数に一致する数です。 1+2+4+7+14=28と
言うわけです。 一番小さい完全数は6で、1+2+3=6ですね。

このことを、大きくなったルート君が先生として生徒に教える場面では、
完全数は、正の整数を1から順に足していくと、その数になることを
黒板で説明します。 1+2+3+4+5+6+7=28 ですね。 これを見て、
生徒達から、感嘆の声が上がります。 こんな数学の授業なら、みんな
面白くなり、その教室からは、どんどん優れた数学者が出るかもしれませんね。
代数中心の数学も、数の要素を増やしたらと思われます。

博士のお陰で楽しい授業が出来る、ルート先生(大人)になった人を演じている
のは、「ALWAS 三丁目の夕日」で売れない作家の茶川竜之介を演じた吉岡秀隆
ですが、そのときは、黒縁目がねとボサボサ頭でしたし、まるで別人に見え
ました。 プロの俳優とは凄いものですね。

さて、世の中に希にしかないと言われる完全数ですが、それを背番号に
背負った江夏投手は大活躍します。 驚くべき事に、博士は、その活躍の
年月日や場面を良く覚えているのです。 例えば、1971年(昭和46年)の
オールスターで、九連続奪三振の完全な投球をやってのけましたのも、その
一例です。 完全数の背番号が効果を上げたのでしょうか。 しかし、江夏が
その後、トレードに出されたことは知らず、ルート君から聞かされると、
悲しそうな顔になります。


虚数は、虚心な愛=i

さて、ルート先生が授業を進めるうち、−1の√は幾らかと生徒に質問する
場面が出てきます。 そして、二乗するとマイナス1になる数字は何かと
聞き直します。 生徒から、そんなこと不可能という声が返ってきます。
「そう、実際はできないね。 でも出来ると見なして、imaginal number
というものが考えられたんだ」と教えます。 −1の√つまり、平方根は
i(imaginalの頭文字)だと言うわけで、ラファエリ・ボンベリと言う人が
考え出したことを告げ、日本語では虚数と言い、虚心なもので、iは愛に
通じるとも教えます。 iの二乗は、−1です。 

しかし、この世界は面白いもので、この虚数を取り入れ、実数と組み合わせて、
a+biという複素数を考えると、いろんな問題が解けて来るというのだから、
不思議です。 


ルート君の野球の応援と、出入りの禁止

さて、家政婦は、一人で午前11時から午後7時までの通勤型勤務という
決まりでしたが、博士がルート君を気に入っていたので、少年が一緒に居る
ことは黙認されていました。

そのルート君は、リトルタイガースという少年野球の選手をしていました。 
野球好きの博士と家政婦は、あるとき、その試合の応援に出かけます。
ルート君の背番号は何と√、実際に世の中でお目にかかることはまずない
代物でしょう。

強い日差しの下の応援が応えたのか、博士は、その夜、熱を出して
寝込んでしまいます。 家政婦は、契約違反になりますが、三日三晩泊まり
込んで看病します。 

これが、依頼主の義姉の逆鱗にふれ、家政婦は解雇されてしまいます。


事情が表沙汰に

実は、この義姉は、博士の兄と結婚してしていて、その実業に支えられ、
弟の博士も数学者の道に勤しんでおれたのです。 ところが、この兄が
亡くなります。 義姉つまり兄嫁は、兄の事業をたたみ、兄の残した
地所を活かして、不動産の経営に転じます。 ここから先は、小川洋子の
原作にはないようですが、映画では、文字でなく、姿形のある男女として
登場するため、義姉と弟に、ある関係を生じさせています。 二人は
ただならぬ間柄となります。 

それを象徴するように、博士は、ある数式で示した、愛の手紙を義姉に
送ります。 そこには、添付のワードの資料にあるAの式が手書きで
書かれていました。


オイラーの公式の登場

それは、18世紀スイス生まれの大数学者、レオンハルト・オイラーによる
オイラーの公式と言われるものです。 このオイラーは、私どもも「おいらの
定理」などともじって習った記憶がありますが、数学全般の功績著しく、また、
数学の記号を作る名人でもありました。 π、e、 sin、 cos、log、Σ等など、
皆、この人のお陰でして、表式や計算は、とても簡単で楽になったと謂われ
ます。

添付のAの式では、e (=2.7182818284590・・・・・無限に続く数字、
英国の数学者ネーピアに因んで、ネーピア数と呼ばれる、)がまずあります。
自然対数の底です。 その関係は、添付資料のC式とD式で示してみました。

A式では、この e と言う、数学で大変重要な定数に、円周率πと虚数iが、
それぞれ乗数で乗っかかっています。 大宇宙からπがeのところにやって
きて、そこに愛であるiも寄り添って、被乗数と乗数の関係ながら、一つの
固まりを為しています。 それは、数学者の博士の持つ世界かもしれません。

A式では、更にそこに1が加わります。 とすると、たった一人の、この
足し算で、世界はがらりと変わり、0となります。 0は、円満のまとまりの
意味を持つのかもしれません。 博士が、義姉に、手紙を送り、そこに
愛の告白として、この数式を記したのは、その趣旨の様にもとれます。

でも、見方を変えれば、0は零ですから、無に通じるかもしれません。
二人の道ならぬ恋は、一旦実ったものの、熟さず、無に帰したとも
解釈できます。 博士がオイラーの公式を入れて書いた愛の手紙は、とても、
意味が深いようです。 

本来、この公式は、理工系の先生によると、指数関数と三角関数を相互に
変換するときに使える、大変便利なものだそうで、オイラーの発見で、まず
使われるようになり、証明はずっと後のことだと聞きました。 似たような
使われ方をするものに、ラグ・ランジェ乗数がありますが、これは、私が
学んだ範囲では、その機能にまだ証明はないと記されていたように
思います。

ところで、添付のB式は、別の意味をもつように見えます。これは、手紙
には出て来ませんが、左辺の+1を右辺に移せば、こうなります。 

映画での世界では、義姉は、ひとつぶ種を宿したと告白しながら、世間や
親戚の目で、生む勇気が無かったと語ります。 i=愛のある
左辺は、右辺に移ると−1、つまり、この世に生を得られなかった者、
即ちマイナス、水子の事を意味するようにも見えます。 それゆえか、
義姉は、「私は罪深い女です」と語るのです。


四人が揃うシーン

その後、諸々の事があり、後任の家政婦では事務的で、とても持たない状況と
なり、ルート君の母が、再び家政婦として働き始めます。 義姉の居る母屋と、
博士の居る離れの間の庭に在る扉は、義姉の手で、開いたままに
なりました。 ようやく、固さや枠のような物が取れ、四人が揃う幻想的な
シーンが出現します。 大人になったルート先生が、博士に頭を撫でられる
場面が出てきますが、年代が合うのかなと思う、とても不思議な光景です。 
実相ではないかもしれません。 でも、それは、実在の河川である千曲川の
川原を思わせる美しい情景でした。 

数や数学が現世と織りなす、情と美の物語でした。

ご一読、有り難うございました。

_______________

いばらき大使 仲津 真治

新しいホームページを開き、更新を続けています。
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無事終わったトリノオリンピック
  Date: 2006-03-03 (Fri)

無事終わったトリノオリンピック

そうした中、イタリア北西部のトリノを中心に開かれていた冬季
オリンピック大会が幕を閉じました。 日本は大規模な選手団を
派遣したにもかかわらず、あまり振るわず、メダルは、華麗な
舞を魅せた、フィギュアスケートの荒川静香選手の金メダル一個に
止まりました。 残念な結果ですが、関係者の御努力を多としつつ、
今後の強化対策や取り組み、そして新人の開拓に期待したいと思います。

ところで、今回のオリンピックで大変良かったと思うのは、テロや
死傷者が出るような事件が無かったことです。 これは、決して
偶然や当たり前のことではなく、イタリア政府、地元当局、国際的な
広がりを持つ関係各方面の万全の努力や必死の取り組みの所産であると
推察されます。


悲劇のオリンピック:ミュンヘン

と言うのも、実は、オリンピックでは、過去に凄まじい悲劇が起きている
のです。時は、1972年(昭和47年)、その冬には、札幌で冬季オリン
ピックが開かれていました。 そして、9月には、当時の西ドイツの
ミュンヘンで夏季オリンピックが開催されました。 その9月5日未明、
イスラエルの選手団が、「黒い9月」と称するテロリストの一団に、選手村
にて襲われ、選手・コーチ・役員11名が拉致されたのです。 テロリストの
狙いは、「オリンピックの晴れ舞台で、世界の注目をパレスチナ人に集め、
拘束されている234人のパレスチナ人などを、人質と交換に釈放させる」
というものでした。

しかし、交渉は成立せず、、西ドイツの警察の救出作戦は失敗、人質全員が
犠牲となり、犯人五人とドイツの警察官一人が死亡しました。 犯人の一部は
生き残りました。 

世界がテレビなどの映像で目撃した一大テロ事件でしたが、この事件とその
後に起きたことを主題とするのが、この「ミュンヘン」と言う映画です。

後続の事実は、長く歴史の闇に隠されていましたが、1984年(昭和59年
サラエボの冬季オリンピックやロス・アンジェルスの夏季オリンピックが
開かれた年)に、このテロへの報復として、イスラエル政府が決断したと
される「神の怒り作戦」のことが、「標的(ターゲット)は11人−モサド暗殺
チームの記録」によって公になりました。 報復の暗殺を決行した当人によって
公表されたのです。

これは、この映画の参考図書とされ、日本では、邦訳が新潮文庫から刊行
されています。

ただ、これで真相の全てが明らかになった分けではないようですが、他の
関係者の証言も得られ、それらをもとに脚本が書かれて、この映画が制作
されました。 鬼才スビルバーグ監督のアメリカ映画ですから、使用言語は
英語が中心ですが、ドイツ語、アラビア語、ヘブライ語、イタリア語、
フランス語などが登場します。 原題は「MUNIC」と英語ですが、邦題は、
ドイツ語の原語に近く「ミュンヘン」となっています。


テロへの報復作戦

テロ事件に、イスラエル政府は激怒しました。 時のイスラエル首相は、
ゴールダ・メイヤー女史、映画で、彼女は、「彼らは我々との共存を拒否して
いる。 我々も共存する義務はない。」と言い切ります。 凄まじい言葉です。、
かくして、イスラエルの秘密情報機関「モサド」の若き一員であるアヴナーが
この任務遂行者に選ばれ、彼をリーダーとする五人のチームが編成されました。
 
極秘任務であるため、家族も祖国も捨て、この世に存在しない立場に
なります。 つまり、報酬や保険などはありません。 しかし、資金は豊富に
用意され、スイスの或る銀行の顧客保管金庫に米ドル紙幣でたっぷりと預け
られていました。 もっとも、使用に当たっては領収書が要求されていました。

アヴナーは人を殺したこともなく、悩みますが、愛国心とテロへの怒り・悲しみ
から、結局任務を受けることを決めます。 妊娠七ヶ月の妻にも事情の説明は
もとより出来ずに。

任務は、テロの首謀者と目されるパレスチナの11人の暗殺です。
ヨーロッパの各地に居ると言われるのですが、もとより、その所在は分かり
ません。


任務は達成されていくが、・・・・。

アヴナーは上官の指示の下、ヨーロッパへ飛びます。そのとき、あのテロの
場面が思い浮かびます。 五人は集合、打ち合わせ、標的の所在を突き止め、
任務を遂行していきます。まず一人の暗殺を、アヴナーともう一人で実行
しますが、射殺するとき、二人は明らかに焦り、動揺します。 

次なる標的は、電話を取り替え爆薬を仕掛け、爆殺という方法を取りました。 

二人暗殺の後、アヴナーは仲間に内緒でイスラエルに一時帰国し、
妻の出産に立ち合います。 生を受けたばかりの娘を抱き、幸せを
噛みしめますが、このままでは家族が危ないと憂い、妻にニューヨークへの
移住を勧めます。

再び、ヨーロッパにもどり、次の標的へ向かいます。 このとき、ルイという
正体不明のフランス人情報屋から金で情報を得るのですが、映画はこの男が
何者か結局明らかにしません。 暗殺相手はPLOのKGB(旧ソ連の情報機関)
との連絡役ですが、爆発の威力は凄まじく、隣の部屋に居て、標的の所在を
確認・通報したアヴナーまでが吹き飛ばされ、死にかけます。 何かの間違い、
それとも、誰かの工作? 


標的以外の犠牲者も、そして、狙われる立場に

更に、ルイから、三人の標的がレバノンのベイルートに居ることを知らされた
チームは、上官との調整を経て、モサドとイスラエル陸軍合同の暗殺作戦を
実行しますが、激しい銃撃が起き、まるで夜の市街戦のような様相を呈します。
アヴナー自らの指示に反し、標的以外の犠牲者を多数出してしまうのです。

次に、フランスのパリに戻ると、ルイのパパなる黒幕の情報屋に、場所を
教えられずに会わされたり、CIAとおぼしきアメリカ人酔っぱらいに工作を
邪魔されたり、事態は複雑さを帯びて来ます。 誰が敵か味方かが段々
分からなくなり、加えて、失敗や単独行動が起きて、チームに不安や疑問が
生じますが、任務は続けざるを得ません。

そして、遂に、仲間に犠牲者が出ます。 その犯人はこれまた正体不明の
美女で、ルイから、金で殺しを行う女と知らされると、チームは怒りと復讐心
から初めて任務外の殺害を行います。 チームの一人は、これに反対し、
「高潔な民族である我々が魂を忘れて良いのか」と言い、任務から離れて
いきますが、爆薬担当であった彼は、その操作中の事故で死んでしまいます。

そして、もう一人のメンバーも夜、散歩から戻らず、川辺のベンチで
死体となって見つかります。 チームは、今やたった二人になり、
夜も眠れず、恐怖におびえる日々を過ごし、「我々は正しいのか」、
「任務はいつ終わるのか」と自問自答し、もがきます。


最大の首謀者の暗殺に失敗、そして。

それでも、アヴナーなど残った二人は、ミュンヘンのテロ事件を計画した
張本人の所在を突き止め、大きな邸宅で狙撃しようとします。 だが、
邸内の人に見つかり、果たせず、逃げます。 二人はイスラエルに戻り、
その功績は極めて大きいと賞賛されます。 しかし、もはや任務には
復帰しませんでした。  

上司は、ニューヨークに移り住んだアヴナーに再会、戻るよう説得しますが、
アヴナーは断ります。 すると、上司は、「我々は組織で仕事している。
君たちだけでない」と言い放ち、二人は別れます。 まだ、世界貿易センター
ビルが二棟健在な頃のニューヨークでした。 画面に二棟はっきり映って
います。

そして、映画の終わりに入るナレーションでは、その後、最大の首謀者も
遂に暗殺され、11名中、9名が殺されたと伝えました。


やりきれない思いと疑問

この映画は、実際にテロが起き、報復作戦が実行された史実に元をした
物語です。 ジェームス・ボンドが登場し、派手に活躍する007シリーズの
ようなフィクションではありません。 主人公も、パレスチナ人を含む、
他の登場人物も、そんなにかっこよくなく、信念・使命感や理想を持ちながらも、
悩み、苦しむ、恐れを抱く人々です。 だが、実話であることの重みは、ひしひ
しと迫ってきます。 そして、この同じ地上で、テロ、報復、暴力の応酬が
起きていることに、やりきれない気持ちになります。

更に事態を凝視すれば、根っこに、民族や宗教の対立・抗争があることに
思いを致り、暗澹たる気分にとらわれます。 何とかならぬものかと。

そこで、この機会に、議論の拡散を防ぎつつ、宗教に論点を絞って論じて
みようと思います。 どうやら、それが、一番大きな、根深い問題のように
考えられるからです。 浅学非才の私には、乏しい知識しかありませんが、
教えていただきながら、考えてみようと思います。 ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教・・・について、・・・


対立する宗教の共通の聖典は、旧約聖書

今日のイスラエルの人々で最も大きなウェイトを占めるのは、ユダヤ人であり、
ユダヤ教徒です。 その教義は紀元前4世紀頃から発達し、今日のイスラエルの
地に住んでいた人々により信仰され、モーゼの律法を基礎に、唯一の神を信じ、
ユダヤ人自身を神の選民とし、神の国を地上にもたらす「メシア」の来臨を
信じていました。英語で、Israeliteと言えば、神の選民という意味がある
くらいです。 その聖典は、旧約聖書です。 

このメシアとして紀元前後に登場したとされるのが、ヨハネの洗礼を受けた
キリストです。元はヘブライ語であるマシーアハが、ギリシア語読みされて
メシアスとなり、当時の地中海世界の共通語であったギリシア語に訳されて、
キリストとなったと言われます。 

だが、ユダヤ教でイスラエルを救うために神が使わしたとされたキリストは、
人類全体の救済と愛を唱え、人類の罪とキリスト自らによる贖罪を説きました。
このキリストの言行録などを中心に、新約聖書が編まれますが、自身を選民と
自覚するユダヤ教の人々はこれを認めず、ここに、ユダヤ教と新生のキリスト
教の離反が始まりました。キリスト教徒にとっては、旧約聖書・新約聖書がとも
に聖典ですが、ユダヤ教徒にとっては、旧約聖書だけが聖典と言うことに
なったわけです。

キリスト教は、当初かなり限られた地域でしか信仰されませんでしたが、
使徒の大いなる貢献などにより、次第に拡大、遂にローマの国教となります。
他方、ユダヤ教徒は、紀元二世紀、ローマのハドリアヌス帝の治世の頃、
追放され、以降、つい最近に至るまで、国家を成さず、広く世界に四散致し
ます。 その間、ユダヤ教の信仰は強く保たれましたが、キリスト教世界
からは、厳しい圧迫を受けました。西洋世界における大きな宗教対立・抗争
の始まりです。 (イスラエルの再生・建国は1948年のことです。)

次いで、7世紀に入り、今日のアラビアの世界で、もう一つの宗教・イスラム教
が生まれました。予言者ムハマド(Muhammad 私どもはマホメットと教わりました
が、今日ではアラビア語の原語に近く、ムハマドと呼ばれているようです。)が
神の啓示を受け、偶像崇拝の排斥とアラビア民族の覚醒を訴え、教勢を得、
遂に出生地であり、聖地となったメッカに十万人の信徒とともに巡礼しました。
そして、山上の説法を行いました。 このムハマドの受けた神の啓示を
結集したものがコーランで、イスラム教の聖典となっています。 しかし、
イスラム教でも、旧約聖書は聖典と言われます。 エルサレムが、ユダヤ教、
キリスト教、イスラム教の共通の聖地となっていることも、このことと深く
関係しています。

そして、イスラム教によれば、キリストもモーゼなどと同じく、予言者で
あり、決して神の子ではないと言います。 キリストを神の子としたのが、
キリスト教の誤りと主張します。 ムハマドも予言者であるが、神の子では
ありません。 ただ、神が地上に使わした最後の予言者であるとしています。


各宗教の対立・抗争、そして宗教戦争

ご存じの通り、以降の世界では、キリスト教やイスラム教によるユダヤ教への
弾圧、圧迫、十字軍やトルコの欧州への拡大を代表例とするキリスト教とイスラ
ム教の戦い、キリスト教におけるカソリックとギリシャ正教の分裂・対立、
カソリック・プロテスタント間に代表される宗派の争い、イスラム教における
スンニ派とシーア派の争いなど、宗教・宗派を巡る戦争や対立・抗争が繰り返
されてきました。 今日に至るも決して終焉しているとは言えません。 様々な
形で起きています。 悲しい現実です。 この「ミュンヘン」という映画で
描かれた実話も、その一つと見るべきものでしょう。


宗教・宗派間の和解と寛容こそ、21世紀の大きな課題

文明が進み、人類の知見が深まり、広がる今日、古代や中世から継承する、こう
した宗教・宗派の戦争や対立・抗争を、大きな和解と寛容の心で、おさめ、終焉
させていくことこそ、人類に課せられた大きな課題と思います。 容易ならざる、
極めて根深い問題ですが、宗教者に限らず、人々に広く、重くのし掛かっている
ものと言うべきでしょう。

その点、三大宗教の一と言われる仏教は、他宗教との戦争や、宗派間の抗争のほ
とんどない宗教として知られています。 確かに、時の政府や権力者との争いは
ありましたが、西洋世界におけるような、いわゆる宗教戦争の様なことは、どう
やら起きてこなかったようです。 これは、釈迦の生涯、仏教の教義や信仰の
内容に由来するものと思われますが、宗教者や専門家の方から、是非、教えて
頂ければと存じております。

同時に、宗教戦争や宗派の抗争は世界的な問題ですから、その解決・解消のため、
ともに、同じ地上に在るものとして、仏教と仏教者の果たすべき役割も大きいよ
うに思います。

一読賜り、有り難うございました。

_______________

いばらき大使 仲津 真治

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原子力発電所の「今」
  Date: 2006-02-20 (Mon)

仲津真治です。 ようやく春めく日もある、今日この頃ですが、
如何おすごしですか。 多事多端の中ですが、御元気に御活躍の
程を心より念じております。

さて、今回は、原子力発電所を見学する機会がありましたので、
そのことに触れながら、原子力発電のことについて、話題に
したいと存じます。 素人の拙文ですが、ご高覧頂ければ幸いです。

火力発電では、石油や天然ガスを燃やして熱を得て、これで
発電しますが、原子力でも、原料であるウランを燃やして熱を
取り出し、発電するという言い方をします。 でも、ここに
同じ「燃やす」と言っても意味が違いますので、まず、そのこと
から書いてみようと思います。


ウランが燃料になるとは? 物質の構造から考えると。

このことを考えるには、物の基本に立ち返る必要があります。
自然界には、最も基本となる物質の単位として、原子と言うものが
在ると考えられて来ました。 原語はアトムと言い、元はギリシャ語で、
これ以上分割できないとの意味と教わりました。 この原子の実在は
確かめられたのですが、19世紀の末にイギリスのトムソンという学者が、
原子は分けることが出来、中心は+の電荷を帯びた原子核で、周りを
−の電荷を帯びた電子が回っていると言ったのです。

このことが実証され、最も簡単な構造で軽い水素では、中心に陽子(
「ようし」と読みます。「ようこ」ではありません)が一個有り、
かなり離れたところの軌道を電子が周回していることが分かって
きました。 と言っても、目に見えない極微の世界でのことです。

これが炭素では12個の陽子、酸素では16個の陽子と段々大きくなり、
一番、大きくて重い元素はウランで92個の陽子が在ることも明らかに
なってきました。 この陽子と同じ数だけ、電子が周りにあり、しっかり
した構造をなしています。 原子核と周りの電子からなる原子は、普通、
簡単に壊れるものではありません。そして、燃えやすいとか、物を燃やす
とか、全く反応しないとか、どんどん化合物を作りやすいとかと言う
各元素の化学的性質は、この周回する電子、とりわけ、一番外の軌道を
回る電子で決まってくることも知られるようになりました。
元素には、陽子の数、つまり電子の数と同じ原子番号と言うものが
ふられ、最小は1番の水素で、自然界で最大は92番のウランです。


軽い元素は融合し、重い元素は分裂する傾向がある

これらの元素を1番から92番まで、順番に並べますと、その化学的な
性質に、八番目毎、繰り返し似たような傾向が現れることが分かり
ました。 これで元素の周期律表を作ったのが、メンデレーフと言う学者で、
高校時代に教わりました。 そして、この周期律表の初めの方の元素が
小さく、軽いゆえに、くっついて、より大きい元素になろうとし、
周期律表の終わりの方の大きな、重い元素は、分裂して、より小ぶりの
元素に変わろうとする、物理的な性質があることも分かってきました。
これが典型的に現れるのが、軽い水素であり、重いウランと言われます。

水素は、他の水素とくっついて、一段重いヘリウムという元素に変わろう
とする性質があると言われます。 でも、これは化学反応ではありません。
核融合と言われる物理反応です。 太陽では、これが毎日、大量かつ持続的に
起きていて、光球となり、宇宙に光と熱を放散し続けています。 私どもは
その恵みを受けている分けですが、太陽と同じく、恒星と言われる星でも
同じ事が起きていて、自分で光っています。月のような衛星や金星・火星の
ような惑星が、太陽の光を浴びて反射しているに過ぎないのとは、まるで
違うのです。 

核融合反応は一億度以上というとてつもない高温でないと起きない現象ですが、
起きる前に在った水素の合計質量に対し、融合して出来たヘリウムの合計質量が
少し減ることが知られています。 これを質量欠損と言いますが、この減った
質量がエネルギーに変わるのです。 アインシュタインの有名な公式、

E=m×Cの二乗 (E:エネルギーの量 m:消えた質量 C:光速度)

によって、膨大なエネルギーが誕生します。

この核融合を地上で持続的に安定的に行おうとする試みが、以前から為されて
いますが、実用化の目処は未だはっきりしておらず、研究段階が続いています。
このとき、同じ水素ではあるが、陽子が同じく一個なのに、中性子(電気的に+−
がなく中性であるが、質量は陽子と同じ)を一個含む重水素や二個含む三重水素
の方が核融合を起こしやすいと言うので、それらを研究資材にしていると
聞いています。 重水素や三重水素は、水素としての化学的性質が変わらない、
水素の同位元素ですが、海水中に多量に含まれているので、核融合が実用化
されれば、人類のエネルギー問題は解消すると言われています。

なお、かなり前に、常温で核融合が起きたとした発表があり、随分と
注目を集めまたことが在りましたが、他の人々が同条件で追試したも再現されず、
疑問視されたままとなっています。 他方、一億度という高温を人工的に
実現して核融合を一挙に可能にしたのが、水素爆弾で、超高温を得る起爆剤と
して原爆を用いていると聞いています。


ウランの核分裂とは?

他方、自然界に存する、最も重い元素であるウランは、反対に分裂する
傾向を持つと記しましたが、より正確に記しますと、ウランの中で、
質量数(原子核を構成する陽子と中性子の合計の数)が235ある
ウラン235は、分裂しやすい物理的性質を持っていているのに、
それらが238個あるウラン238は、分裂しにくい安定した元素で、
半減期が46億年と言いますから、地球が誕生したときから数えて、
やっと半分に減ると言う程度にしか分裂しません。 しかも、自然界には
このウラン238が圧倒的に多く、賦存量の99.3%を占めているのです。

そこで、ウランの核分裂を利用してエネルギーを取り出そうと言うとき、
0.7%しかないウラン235のウェイトを高める努力が行われます。
これが濃縮です。 0.7%を3〜5%に高めています。

仮に、これを90%のような程度までに濃縮度を高めると原子爆弾の
材料となるわけで、およそ、レベルの違うことが理解できます。

さて、原子力発電の話に戻しますと、この3〜5%に濃縮されたウラン
燃料を、ペレットに固め、被覆度の高い特殊な合金の中に入れて、
束ねた形にして、制御棒とともに、原子炉に入れて、核分裂を起こさせる
分けですが、燃料棒のにある中性子がウラン235に当たって、これを分裂
させ、そこから出てくる中性子が別のウラン235に当たって、反応が
持続していくと言うプロセスが燃料棒の中で展開されていきます。

このとき、ウラン235は、分裂して別のより軽い元素に分かれるのですが、
元のウラン235の質量に比し、出来た生成物たる元素の質量の合計は
やはり減っていることが知られています。 核融合と同じく質量欠損が
起きているのです。 そして、その消失した質量が、前述のアインシュタインの
公式により、膨大なエネルギーに変わっているのです。 

これは、通常言うところの物が、炎を出して燃えるのとは違います。 
普通燃えると言うのは、酸素と化合すること、例えば、木を燃やせば、
その中の炭素が酸素と化合、つまり、酸化して二酸化炭素(炭酸ガス)が出来る
分けで、質量は減りません。ウランの核分裂を燃焼と呼んでも、酸素が関わる
わけでも無く、意味が異なることを認識しておくべきと思います。

なお、核分裂の結果、生成する軽い元素は何かとと言うと、これは、確率的に
しか分からないようです。 典型的に二つに分かれるとしますと、
ジリコニゥム99とテルル144や、バリウム90とランタン144が
出来るというように、質量数90付近と140付近にたくさん出来ることが
分かっています。 撃たれた結果は、様々だが、大体の傾向が確率の分布で
知られ、それは原子力施設の安全評価でおなじみと申します。


核分裂で出る熱エネルギーで、水を沸かし、発電します。

核分裂で大きなエネルギーが熱の形で出てきます。 これで水を沸かし、
高温・高圧の蒸気にしてタービンを回し、発電するわけですが、その
方法として、主に沸騰水型と加圧水型の2種類があり、両方とも実用化
されています。 ただ、ここでは、この程度に止め、割愛します。

見学した福島第二原子力発電所は、沸騰水型で、同じ浜通りのもっと北に
位置する福島第一や日本海側の新潟の柏崎・刈羽も同様です。 福島の
二つの原子力発電所だけで、合計約九百万キロワットの発電能力を持つ、
巨大なもので、首都圏の大きな電力需要の基層部分を賄っています。


ウランは、次の燃料を生み出します

さて、燃料棒を挿入して核反応が進みますと、ウラン235は、熱エネルギーを
出しながら、分裂して前述のような物質に変わり、次第に減っていきますが、
他方、量的に圧倒的に多いウラン238は、徐々に中性子を吸収して、プルト
ニウムと言う物質に変わっていきます。 このプルトニウムは吸収した中性子
一個分増えて、質量数239となりますが、自然界には存在しない物です。
つまり、人工元素なのです。 原子番号93以上の人工元素は、他にも作られて
いますが量的にも多く、有名なのは、このプルトニウムです。

このプルトニウムは、核分裂しやすい性質を持っています。 当然、この性質を
利用して、これも燃料に使えないかと言う発想が出て参りました。 ウラン
238はウランの中で大部分を占めている分けですから、それをプルトニウムに
転換して利用できれば、これは有用性が大いに高まります。

これがプルサーマルや高速増殖炉のアイデアなのですが、これは、全く
新規の突飛な考え方ではなく、実は、今の原子力発電所でも、このプルトニウム
が既に燃料として役立っているのです。 それは、ウラン235一個の核分裂で
平均2.5個飛び出る中性子が、同じ燃料棒の中で、ウラン238に当たると
吸収されてプルトニウムに変わりますから、今度は、そのプルトニウムが、更に
中性子を浴びて分裂し、熱エネルギーを出すことも出てくるからです。
トータルで計算すると、全体発電量の約30%は、プルトニウムから来ていると
申します。


では、何故、プルサーマルか

ただ、このまま続けても、ウラン235は徐々に減り、プルトニウムも
それをカバーする程には増えませんから、効率が落ちてくるので、
一定期間(数年)発電を続けると原子炉を止め、使用済みの燃料を取り出し、
その再処理を行うというプロセスに入ります。

このとき、新たに得られた濃縮ウランを再度投入すれば、従来の発電が
再現され続くわけですが、再処理して生成物を除去し、プルトニウムを
多く含んだ燃料を加えて、運転を再開することが検討されています。
この混合燃料をMOX(Mixed Oxied Fuel)と言い、この燃料を
利用することがプルサーマルと呼ばれています。 諸外国に多くの実例が有り、
国内でも各方面での検討と調査が進められておりますが、最近では、
九州電力と地元の県や市町村との話し合いが進み、事態が進展している
ようです。

プルトニウムは生成されていく物ですし、資源・エネルギー小国の
我が国としては、一回使ったら終わりと言うのでない、核燃料のサイクル
利用は大切なことと思われますし、プルトニウムも貯まれば核爆弾の
材料になり得るわけですから、平和利用に徹する日本としては、その平和的
活用は、大変大事なことと考えられます。

さらに、原子炉自体に、ウラン235はもとより、出来てくるプルトニウムを、
そのまま、燃料として積極的に使っていくと言うことが考えられています。

これが高速増殖炉で、中性子を大きく減速させる性質があり、制御に
も役立っている水に代えて、中性子の高速を維持し、プルトニウムの
生成、つまり増殖を可能にするナトリウムを使い、プルトニウムを
持続的に使おうとする研究が行われています。 それを担っていた「もんじゅ」
にトラブルがあり、実証的な実験は止まっていますが、今後に係っている
課題と申せましょう。

いずれにしても、現状の原子力発電でも、既にブルトニウムが発電に
役だっていることをふまえながら、今後の研究開発と発展が図られていく
ものと考えます。


現行原子力発電の課題

原子力で得られる熱の約30%が発電に使われています。 換言すれば、
熱効率が3割に止まっている分けですが、これは、8割を越す水力はもちろん、
既に5割を超えた火力に比べても、やや低いといわねばなりません。
燃料代が安いといっても、巨大な鉄筋コンクリートの建屋で覆い、その中に
原子炉の格納容器をすっぽり入れ、更にその中に原子炉を収納し、加えて二重に
防護されウラン燃料を用いて、安全に安全を重ねて発電しているわけですから、
熱効率の向上は、より緊要な課題のように思えます。

また、設置後、三十年余り経過した原子力発電所が出てきている現状と
新規の立地難を考えれば、設備機械の保守点検のみならず、更新や
取り替えを徐々に進めていくことは、これまた切実な課題と申せましょう。


警戒厳重な発電所

それにしても、原子力発電所の警戒は、凄まじく厳重です。
これは、万が一にも放射能が漏れてはいけないと言う安全・安心対策と
平成13年9月11日の同時多発テロを契機に強化されることになった
警備体制の両方からなります。

入場者の申告と同一人物であることの幾度にも亘る確認、電子認証装置を
駆使したチェック、放射能の測定などよる異常なしの確認など、それは
徹底したものでした。 また、国際原子力機関(IAEA)による査察も
徹底しており、我が国はそれを厳格に履行、核の平和利用に徹して、高い
国際評価を得ている分けです。

多重防護(Defense in depth)の考え方とその実践も徹底していました。
まず、異常と事故を区別し、第一に異常を起こさせない、地震などの災害にも
耐えられる設計と管理、点検・誤動作の防止、次いで、異常の拡大を防ぐ検出と
自動停止の装置、更に、非常冷却装置などの万一の事故に備えた対応などです。
押しボタン一つにしても、誤操作や防ぐため、一つだけでは作動しないと
言うのは、説得力がありました。 シミュレーション装置による習熟や
異常対応の訓練も鬼気迫るものがありました。

他方、警察や海上保安庁による警備も厳重であると伺いました。
国民保護法が施行される時代ですからね。


日常生活と放射線

福島第二原子力発電所の広大な敷地から離れて、福島県富岡町の
市内にエネルギー館という施設が出来ています。 そこでは、数々の
展示や解説の他に、記念品や近隣の物産が展示・販売され、喫茶の
コーナーも設けられていましたが、同時に、やさしい解説も行われて
いました。

中でも、自然界には、もともと太陽や宇宙からやってくる宇宙線のような
放射線があること、それらは大地や食べ物にも在ること、食品から摂取し、
栄養として取り込み、人体が活力として放射線を利用するように出来て
いること、そして、レントゲンの撮影で受ける放射線はそれより小さいこと、
原子力発電所から出る放射線は、それよりももっと低いレベルに在ること等が
記されていました。 展示では、それらが測定装置で確かめられるように
なっていました。 安全と言うに止まらず、安心が得られるよう、
細かい気配りがなされていました。

こうまでしているわけですから、データを改竄したり、ごまかしたり、
異常があったときに隠すなどのことは、こうした地道な努力や取り組みを
無にするものですから、もってのほかと言うべきでしょう。


原子力の利点

ここで、原子力の利点を振り返っておきましょう。

第一は、ウラン燃料が安く、カナダやオーストラリアのような
自由民主主義体制の政情の安定した国々から輸入できることが
上げられます。 最大の原油輸入先である中東と比較すれば
一目瞭然です。

次に、原子力は安定した発電能力を発揮しますので、ウラン原料の
安さと相俟って、比較的経済的な電気供給に貢献しています。

さらに、原料であるウランがプルトニウムを生むことによって
リサイクル出来、繰り返し利用できる点です。 化学反応による
燃焼型ではこういう例はなく、強いて言えば、水力発電が循環利用と
いえるでしょうか。

また、最近重視されている温暖化対策の面で見れば、発電しても
炭酸ガス(二酸化炭素や、硫黄酸化物)を出さないのは優れた点と
言うべきでしょう。

他方、核燃料サイクルを確立していったとしても、核廃棄物の
処理や安定的な保管の面では、またまだ、大きな努力や創意
工夫が必要でしょうし、今後の息の長い取り組みが欠かせないと
言えます。


汽車の歌と福島浜通りの海岸

終わりになりますが、この見学の機会に、楽しく大きな発見を
しました。 常磐線で、茨城県の県境を越え、福島県を暫し走ると、
子供の頃に慣れ親しんだあの歌、

「今は山中 今は浜 
 今は鉄橋 渡るぞと 
 思う間もなく トンネルの 
 闇をくぐって 広の原」
 
と言う歌詞そっくりの景色が繰り広げられるのです。
ひょっとしてと思ったら、やはりそうでした。

あの汽車の歌であめ文部科学省唱歌はここで作られたのです。 

日本の原風景とも言うべき、景観の移り変わり、狭い国土に
山有り、谷あり、川有り、海有り、広野有りの、この景色
なんとも言えない感興にひたることが出来ました。
そして、着いた駅は、「広野」、この町の名が広の原に
通じるのかとも思いました。 駅には、大和田愛羅作曲、
文部省唱歌の歌碑がそこにありました。

浜通りの海岸は、豊かな自然を育んでいるのです。

有り難うございました。

_______________

いばらき大使 仲津 真治

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映画「ホテル・ルワンダ」:千二百人の命を救った実話の物語
  Date: 2006-02-12 (Sun)

仲津真治です。  相変わらず、寒い日が続き、春の到来が
待たれるこのごろですが、内外とも多事多端の折り柄、
御健康に留意の上、御健闘・御活躍なるよう念じております。

さて、今回は、「ホテル・ルワンダ」と言う、実際にあったことに
基づいて作られ、日本でも上映を求める声が高まり、そうした
運動が起きて、遂に劇場で公開されるに至った映画について、
記します。


ルワンダて何処?

舞台は、アフリカのルワンダ(RWANDA)という国です。 その国は、
知る人が少ないと思われますが、アフリカの東海岸、つまり
インド洋側に在ります。 でも内陸国です。 日本でも良く
知られているケニヤやタンザニア(タンガニーカとザンジバルが
一緒になった国)の西奥にあり、アフリカ大地溝帯で有名な
ビクトリア湖やタンガニーカ湖が近くにあります。 更に西側は、
ザイール(旧国名コンゴ)に隣接しています。 面積二万六千平方
キロメートルですから、小さめの国です。

ここで、1994年(平成6年)に大虐殺が起きました。 何と、
百万人もの人が殺されたと申します。 そして、映画の主人公で
実在の人物である、ポール・ルセサバギナは、首都キガリに在る
ミル・コリンという四つ星ホテルの支配人として、家族を守る一心から、
結局千二百人もの人々をかくまい、その命を救ったのです。
その物語を映像にしたのが、この映画です。


虐殺の起きた背景:部族主義と列強の統治

これだけの大規模な虐殺が起きた背景には、部族間の対立が
ありますが、それを生じさせたのは、列強の植民地支配にあると
みられます。 アフリカは、もともと部族主義(Trivalism)に
特長づけられてきたと言われますが、ヨーロッパの列強は、その
支配を効果的ならしめるため、これを利用しました。

アフリカ人を奴隷として徴用し、アメリカの新大陸に送ったのも、
自らの奴隷狩りによっただけでなく、アフリカの部族間の対立を利用し、
優勢な部族を買収し、劣勢な部族を捕らえさせることにより、奴隷に
した例が数多くあったと言われます。

その中では、ルワンダの地は、奥地にあったためか、列強の支配は
直ぐに及ばず、王国が形成されていました。 しかし、1895年に
その王朝が混乱に陥るに及び、当時、台頭しつつあった新興統一国家
ドイツがこれを保護下に置くに至りました。 その時、それなりに、
まとまりを持っていたルワンダは、ツチ族が中心勢力として治めて
いましたが、彼らは、ドイツの総督府による間接統治を利用して、
支配を続けようとしました。 

でも、ドイツは第一次世界大戦で敗れ、海外領土を全部失います。
その結果、ベルサイユの講和条約により、ルワンダの地は、西隣の
コンゴを支配下に置いていたベルギーに渡されることになりました。
ベルギーは、分裂・支配(Divide and Rule)をより徹底して、統治を
進めました。 薄めの肌に鼻が細く、薄い唇などの特長(ヨーロッパ人
に近い風貌)をもつツチ族を経済面や教育面で優遇、黒い肌に平らな鼻と
厚めの唇等を特長とするフツ族に対し、優位に立たせたのです。人種が
記されたIDカードまで発行されました。 

同じ言葉を話し、宗教も同じで人種間の結婚も多かった両部族でしたが、
人種差別の思想や制度が、日常に浸透、子供の頃から、たたきこまれるに
及び、国としてのまとまりは急速に失われて行きました。 

でも、実際は、この映画の始めの方で、欧州人の記者が、ホテルのカウンターで
飲む人々に、「あなたは何族だ?」と尋ねる場面があり、「ツチた゜」
「フツよ」と言う答えを聞いても区別が付かず、困った顔をするところが
あります。 これは、混血が進んでいると言うことでもありましょうし、
そもそも異なる民族集団と捉えられないと言う学者の見解があるくらい
ですから、この映画は、こうしたシーンでそれを訴えるべきだと考えたの
かもしれません。

今日のルワンダでは、差別的な言動とともに、ツチ族、フツ族と言った
呼称は禁止されています。 ただ、この映画では用いられておりますし、
そうでないとかりにくいと思われますので、ここでも、その言い方による
こととしますので、ご了承下さい。


戦後の独立と混乱

さて、第二次大戦が終わり、国際連合が成立して参りますと、
ベルギーもこういう差別と支配のような体制をとり続けることが
出来なくなり、民主化を進め、その下で、政府を作ろうとします。

そうなると少数派のツチ族だけにと言うわけに行かず、その
反発を受けながらも、1959年に起きた多数派のフツ族の反乱を
利用して、これまで意を通じてきたツチ族の支配者達を追放、新政府
づくりへと進んで行きます。 1962年、選挙が行われ、遂に
ベルギーから独立、多数派フツ族が支配する新国家となりました。

だが、政治は安定せず、1973年軍事クーデターが起き、フツ族の
将軍が大統領となって諸政党を禁止、圧政を敷きます。 1990年、
ツチ族を中心とした反対勢力は、国外で、ルワンダ愛国戦線(RPF)を
結成、反撃を開始します。 そこへ国連からの改革圧力が加わり、
1992年に入って、遂に大統領は愛国戦線と話し合いに入り、
和平協定の調印に至ります。 ところが、大統領を支えてきたフツ族
至上主義者は、これを裏切りとみなし、1994年、大統領の乗機が
撃墜されてしまいます。 映画ではこのことをニュースとして報じる
ラジオの場面で描いていますが、ことの真相は不明です。


大虐殺、国連の対応と報道

フツ族至上主義者は、これを愛国戦線の犯行と宣伝、政権内のツチ族と
フツ族の穏健派の処刑を始めます。 映画では、「大統領と和平を結んだ
愛国戦線がそんなことをするはずがない」と、フツ族側が仕組んだことを
におわします。 だが、事態はこれに止まらず、予め計画されていたと
思われますが、フツ族の民兵(インテラハムェ=ともに戦う者の意)が登場、
町中に繰り出して、大虐殺を始めたのです。 政府軍が民兵を養っている
のではないかと言う支配人のポールの問いに対し、政府軍のビジムング将軍は
これを否定しますが、中国から一刀10セントで大量に輸入された鉈(なた)が、
商人のルタガンダの店で露見する場面があり、計画性を伺わせます。 
この鉈で、殺戮が行われ、誰も止めることが出来ないまま、三ヶ月の間に、
ルワンダ全土に広がりました。 おびただしい殺戮が発生、至る所に死体が
散乱していきます。
 
なのに、何と国連の平和維持軍は、白人等を国外へ避難させると並行して
兵力を大幅に減らしてしまいます。 介入の権限がないと言い、ルワンダ人を
助けるのではなく、犠牲が出ている部隊自体を危険な場所から引き上げたのです。

このとき、現地司令官のオリバー大佐(実在ではないが、何人かの司令官や
国連軍人のイメージを総合したような役柄)が支配人のポールに言うセリフが
象徴的です。「君が信じている西側の超大国は、君らがゴミで救う値打ちが
ないと思っている。 君は優秀で部下の信頼も厚いが、、このホテルの
オーナーになれない。 黒人だからだ。 君らはニガー以下のアフリカ人だ。
だから軍は撤退する。虐殺を止めはしない。」 かように、事態の背景に、
人種差別があると明言するのです。 ここに言うニガーはアメリカの黒人を
指すのでしょうが、それにしても、この台詞はあからさまで凄まじいものが
あります。 また、欧米のこうした対応には、ルワンダに、これと言った
石油や資源がないと言う事情も加わっているのでしょう。 資源があれば、
放置すまいと思われます。 

支配人のポールは、欧米の記者による報道に期待をかけます。 狂乱の街で、
恐ろしい殺戮の実相や死骸の山を撮影してきたカメラマンのダグリッシュに、
「これが放映されれば国際救助が来るはず」とポールは言います。だが、
「世界の人々はこれを見て、怖いねと言うだけで、ディナーを続ける」との
答えが返ってきます。 失望が漂います。


避難キャンプと化すホテル

かくして、事態は悪化の一途を辿りますが、ポールが家族や近所の人を避難
させていたホテル 「ミル・コリン」は、海外資本の四つ星ホテルであり、
一応の国連軍兵士の警備もあるため、民兵も手を出せず、避難キャンプの
様相を呈してきます。 それに、支配人のポールはフツ族でしたから、それに
かくまわれたいと言う人々の気持ちも働いたようです。 いろんな伝や
ルートで人々が逃げてきます。 でも、ポールの妻タチアナはツチ族でした。
幾度も危険が迫ります。

ここで、俳優のことを記しますと、ポールを演じるドン・チードルは
アメリカ人俳優ですし、タチアナを演じるソフィー・オコネドーは、
ユダヤ系英国人とナイジェリア人の混血ですが、英国育ちの女優です。 
ともに熱演の二人の風貌は、フツ族とツチ族を対比させる感があります。 

やむなく、ポールの闘いが始まります。ポールは、普段からヒムジング
将軍や有力商人のルタガンダ等と仲良くすることにより、危急の場合に
助けてもらえるよう手をうっていましたが、それが役だって参ります。
賄賂や機知、適宜の脅しが効を奏します。 映画の至る所で、さりげなく
賄賂が渡される場面が出てきます。 日常茶飯事なのでしょう。 
賄賂には、フランの単位で呼ばれる外貨が有効ですが、旧宗主国のベルギー
フランのことと思われます。 スコッチウィスキーも何度か登場します。 
将軍はがぶ飲みが好きのようでした。 また、ポールは、国連兵は大幅に
減ったものの、アメリカがスパイ衛星で監視していると、将軍に警告します。 
勝手なことをするとまずいよと脅すのですが、これは機転を利かした
嘘でした。


ホテル閉鎖、避難、遂に助かる

それでも、様々な危ない事態が訪れますが、ポールはベルギーの本社を
動かし、大国の首脳にまで電話させるなどして、何とか乗り切ります。
とは言っても、ホテルの常態はひどく、部屋番号も外し、誰が滞在して
いるかも分からなくし、廊下にも寝泊まりする惨状となっていました。 

その最中でも、アフリカの人々の踊りとリズム感覚に良さに驚かされます。
ホテルのプールの周りで、子供達が輪になり、あるいは入れ替わりながら、
楽しい曲を歌い踊るのです。 命の危機迫る窮状にあっても、人々は
音楽や忘れず、癒しを得るのでしょうか。 ほっとするシーンです。

遂にミル・コリンを閉鎖し、退避する日がやってきました。 その日、
オンポロのトラックに人々を分乗させ、移動を開始しますが、恐ろしや、
鉈を持った民兵の集団に襲われます。

万事休すと思いきや、そこへ愛国戦線の部隊が登場、狂乱の民兵を圧倒、
進撃していきます。 前線をくぐり抜け、助かったのです。 映画は、この後
劇的な再会の場面があって終わります。


大虐殺の終焉と大規模な難民

その後、現実の経過を辿りますと、1994年7月、愛国戦線が首都キガリを
制圧、大虐殺は止まりました。 だが、それまでの間、おびただしい数の
人々が、国外へ逃れ、難民となっていました。 その数何と三百万、危機的状態
が起き、問題は国際化しました。 かくして、事態がルワンダ国内に止まらなく
なると、欧米諸国が本当に動き出し、国連の下、最大規模の難民支援活動が
開始されたのです。 日本も自衛隊の部隊を派遣するなど、この支援活動に
加わりました。 その後、周辺国で紛争が起きたこともあって、1997年には、
難民はほとんどルワンダに帰国しました。 他方、狂気をもたらしたフツ族
至上主義者達は、大部分、国外へ逃亡しました。

挙国一致の政府が出来て、選挙が行われ、元愛国戦線のカガメが正式な大統領と
なり、ルワンダは復興へと向かいます。 国連は、ルワンダ国際刑事裁判所を
設置、虐殺などの重要戦犯を裁くとともに、国内でも行政の各層で、民衆裁判が
行われていると申します。 ただ、復興成長しつつあると言っても、ルワンダの
人口は1994年水準に戻っていませんし、サハラ以南のアフリカにほぼ
共通の、貧しい国であることには変わり在りません。

そして、実在の主人公ポールが、千二百人の人々の命を長らえさせながら、
今は祖国ルワンダに住まず、ベルギーに亡命、そこで家族とともに暮らして
いるのも、何か良く分からない印象を与えます。 ただ、映画は、そこに
ついて何も語りません。 もっとも、ポールが映画制作の顧問となり、監督と
ともに、ルワンダに現地入りし、感謝と感激に包まれたことは事実の
ようです。


劇終に流れる歌曲

アフリカ音楽を思わせる歌が最後に流れます。 その中で、「アメリカ合衆国が
あるのに、アフリカ合衆国は出来ないのでしょうか? イギリス連合王国がある
のに、アフリカに多くの王国が出来、その連合が出来ないのでしょうか?」と
と言う歌詞が歌われます。 アフリカの人々がアメリカやイギリスに寄せる想い
が出ているように思えますし、また、アメリカやイギリスがアフリカに持つ意識
を物語っているような気もします。 それは、アメリカ人監督のテリー・
ジョージが実在のポールの経験談を聞いて映画化を考えるようになり、自ら、
脚本を書いて制作したことや、映画が全編、英語で出来ていることと、裏腹
なのかもしれません。

さらに、このエンディングの曲は「子供達が泣いています。 神様聞こえ
ますか?」と歌います。 この歌詞は、百万人もの犠牲者を出す大虐殺が
起きていながら、何もせず、出来なかったことへの、キリスト教徒の自責の
声なのでしょうか。 あるいは、それは米英に限らず、欧米社会全体に及ぶの
でしょうか。

以上、お読み下さり、有り難うございました。

ご参考:この映画の公式サイト http://www.hotelrwanda.jp

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いばらき大使 仲津 真治

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利根川の水を美味しく!
  Date: 2006-02-03 (Fri)

いばらき大使の仲津真治です。 新年に入って、内外とも
ますます多事多端で、寒さも厳しいですが、御健康に留意の上、
御健闘、御活躍下さいますよう、念じております。

さて、今回は、誰しも日常、縁の深い水、とりわけ上水道の
お話を、私自身の経験も織り交ぜながら、取り上げたいと
思います。 ご笑覧頂ければと存じます。


水道を供給するには、・・・・

人々に上水道等の用水を供給しようとしますと、当然ながら、
川や湖から水を確保する必要がありますが、これは、誰もが
勝手に行えるものではありません。 それだけの権利と設備や
能力が欠かせませんが、この中で、この権利のことを水利権と
呼んでいます。

日本では、明治以降に近代国家となってから、この水利権などの
法的な仕組みが整っていきましたが、湖沼を含む河川の利用の
実態から申しますと、幕末から明治初年の頃までに、河川という
河川は利用され尽くしていました。 そのほとんどは、農業用水
でした。 主に、田畑の灌漑に利用されていたのです。

そこで、新たに水道などを起こそうとしますと、河川の流れが利用され
得るだけの状態、つまり水量が十分に在る状態にする必要があります。
ところが、現実は、既存の農業用水などに利用されてしまっていて、
それ以上に水を取ろうとすると、川に十分な水量(維持流量と言います)が
流れなくなり、舟運が滞り、魚など生き物があまり住めず、景観上も
よろしくないことになります。 


河川の開発とは、・・・・・

そのために、雨が良く降って多めの水が流れるときに、その水を貯めて、
水量が減ったときに、そこから補給して流量を大きめにする方法が
採られます。 河川の流量の季節間や月間の変動をならすと言って
良いかもしれません。 大体、日本では、梅雨や台風がやってくる夏場に
水が多く、豊水期と呼ばれ、雨が降らない冬場に水が減り、渇水期と
なります。 そこで、豊水期の山で、渇水期の谷を埋めると言うと分かり
やすいかもしれませんね。 この貯水と放流を行えるようにして、河川を
より良く、多く利用しようと言う取り組みが、水資源開発と言われる
ものです。この河川開発に用いられる方法で最もポピュラーなものが
ダムです。

ダムは人工的な物ですが、既存の湖沼を、いわば天然のダムとして使って
水の開発をすることもあれば(例:琵琶湖総合開発 霞ヶ浦総合開発)、
二つの河川の間を水路などで結び、その流況の違いをならすような運用を
して、利用できる水をもたらす方法(流況調整河川 例:北千葉導水路)
によることもあります。

いずれにしても、明治以来、営々と、こうした水資源の開発により、
水道などの増大する水の需要に応えてきた分けです。 ここで、私自身が
関わった例を記して、ともどもの理解と認識の向上に役立つことに
なればと存じます。


茨城県南に、利根川の水道を起こす

私は、昭和五十年代の前半に、当時の建設省から出向の形で、茨城県に
奉職致しました。 当時在った、様々な行政課題の中で、水資源の確保は
大きく、かつ緊急のものとして、対応が迫まられていました。 とりわけ、
茨城県南の常磐線沿線で利根川に沿った地域は、東京へ通勤する人々を
中心に急激に人口が増加、市街化が進んでおり、安心して飲み水や生活に
使える水の確保が急務となっていました。

そこで、茨城県では、上水道の事業を起こすことを検討し始めました。 
ところが、河川などから取水し、水道水にするには、水源がないのです。 
つまり、前述したことで分かりますように、水資源の開発・確保が必要と
言うことになって参りました。 私は県の職員ともども、この仕事に
取り組むことになりました。 多種多様の仕事の中で、この水源確保の
仕事は大変、大きなウェイトを占めていました。


霞ヶ浦と利根川

茨城県には、霞ヶ浦という大きな湖があります。 近畿地方の琵琶湖に
次いで、本邦で二番目に大きく、それをダム代わりにして、大きな
水の利用を新たに可能にする総合開発が進んでいました。

茨城県南の新たな水道は、利根川水系に属する、この霞ヶ浦の開発
によるべしと言う考え方が、県外のみならず、県内からも至極当たり前に
出てきました。 開発水量が大きく、十分供給力があると言うわけです。

ところが、人口急増している地域は、霞ヶ浦からは遠く、利根川の左岸(北側)に
沿い、千葉県と向かい合っているところです。 霞ヶ浦から延々と稲敷の台地を
越えて、水を引っ張ってこずとも、眼前を流れる利根川の本川から、水を
取る方が合理的と考えられました。 私どもは、この考え方を採ることと
しました。 

それには、茨城県が、古河から波崎まで170キロメートルに及び、利根川に
面していることから、大きな治水負担をしているのに、一滴の都市用水
(上水道や工業用水)も取水していないと言う事情も考慮に入れました。 
利根川のような大河川の管理は、国が直接担っているのですが、その河川の
存する都道府県も応分の財政負担をすることになっているのです。 農業用水の
利用はありましたが、あとは治水負担ばかりと言う声が怨嗟のように語られて
いました。 また、霞ヶ浦が閉鎖性の水域で、「水質上、気になりますね」
と言った点もあったと思います。


現代版の水の争いは、調整になる

かくして、茨城県南に新たな水道を起こすべく、その水源を利根川本川に
求めて、私どもは果敢な取り組みを開始しました。 それは、合理的な
裏付けを持ちながらも、情熱と意欲に満ちた取り組みとなりました。

でも、茨城県側で私どもがこう考えたからと言って、そのまま実現する
ものでありません。 各都県それぞれ、どんどん増えていく水需要があり
ますから、その要求は切実なものがあります。 

ちなみに、昔は、水の確保を巡って熾烈な争いが起き、血で血で洗うような
ことも数多くあったと申します。 実家が農家であった母からも、こうした
話を聞いたことがあります。 我田引水という言葉もありますね。

しかし、法治国家となり、近代的な水需給の仕組みが出来て参りますと、
利水者同士が力も用いて争うと言うようなことは無くなり、関係機関が
ルールに乗っ取って、調整していくことになりました。 そして、困難を
極める調整の結果、最終的な決定をするのは、河川法制上、当該河川を
管理する国の機関である建設大臣(今は国土交通大臣)であり、実務上は
その監督指導の下にある建設省(今は国土交通省)の関係機関と言うことに
なります。

この調整に当たって、私どもは一歩も引かず、積極果敢な取り組みを
行いました。 私は、もともと建設省の採用ですが、このときは、
茨城県の職員ですから、一所懸命、頑張りました。 古巣の職場との
折衝ですが、そこは仕事であり、立場があるわけです。 


遂に決まる、利根川の本川取水実現へ

一年有余に亘る折衝・調整を経て、私どもは、茨城県の歴史で
初めて、利根川本川取水の道を開くことが出来ました。 利根川水系の
中流域に在る「渡良瀬川の遊水池」をダム代わりに利用する水資源開発に
茨城県も利水者として参加、費用負担をしつつ、水源の配分を受ける
と言うことが、遂に決まったのです。 その内定のシグナルは、最初に
電話でもたらされましたが、それを受けた当人である私は、今でもそのことを
鮮明に覚えております。 詳しく聞くと、茨城県を初めとする関係各都県に、
ほぼ均等に、渡良瀬川開発の水を配分すると言うのです。

部長や知事など上司に報告、瞬く間に、大きな喜びが関係職員に限らず、
茨城県の中を走りました。 当時、県議会には、水利用調査特別委員会と
いう委員会が設けられておりましたが、そこからは「茨城県政でも特筆
すべき金字塔」との評価をいただきました。

中には、渡良瀬川と言えば、かつて鉱毒の問題があったがどうなのか
と言う声もありましたが、鉱毒事件は戦前の随分前の事で解決していますし、
利根の流れはその時も今も、渡良瀬川を水系の一部に入れて、とうとうと
続いている分けです。 また、取水するときに、ある所から流れてきた
水だけを取り出す分けではありませんから、もとより、何の心配もないと
言えます。


利根川を水源とする水道の建設と給水

この配分が決まった後、日月が経ち、私は元の建設省に異動し、
別の仕事に従事するようになりましたが、茨城県では、担当部局で
上水道づくりが始まりました。 まず、諸準備と手続き、次いで
本建設です。

そして、昭和57年(1982)年に至り、具体的には、茨城県の企業局が
事業主体となって、給水が開始されたのです。 待望の時、まさに
来たれりでした。

この水道は、県の企業局が既に保有していた、茨城県南水道の第三次
拡張の形で行われました。 元々の水道が、霞ヶ浦を水源として在り、
土浦、筑波、美浦、阿見など霞ヶ浦沿いの地域に既に給水しており、
続いて、第二次の拡張が、同じ水源で、江戸崎、新利根、桜川、東
(今は合併して稲敷市)等も対象に行われていたからです。

そこへ、利根川を水源とする水道が加わりました。 当然ながら、
新しい取水施設が利根川沿いに作られ、そこに浄水場が設けられ
ました。 取手市小文間の利根川浄水場です。

その取水量は、今日、当初の渡良瀬川遊水池の開発による、
毎秒0.505トンに、まだ、暫定ではありますが、八ッ場ダム
による毎秒0.480トンを加えたものとなっています。 合計で
0.985トンになります。 毎秒約1トンで、大変大きな
水量です。 これに、60秒X60分×24時間で計算すると
8万6千4百トンと言う日量が出てきますから、感じがつかめると
思います。 約二十万人に給水できる水量と言われましたが、
最近は、洗濯機など節水型の機器の普及で、もっと多くの人々に
供給出来るようになってきました。 平成16年度末の実績では
28万人を少し上回るところまで給水人口が大きくなっている
ようです。

ただ、開発水量のうち、渡良瀬川開発の分は、事業が終了し、水利権は
確定し安定したものとなっていますが、八ッ場ダムは、まだまだ、
これからですから、暫定のままです。 暫定というのは、河川の
流量が、ある水量以上の時にだけ取水できると言うような条件付きの
ものです。 これらのことは、取水施設の管路や入り口などの
諸仕様が決められ、検査も受け、設置運用されていますから、適当に
水を取るというようなことは出来ません。 しっかりとルールが
守られるようになっているのです。
 

県の水道から、市町村等の水道へ、そして各家庭や事業場へ

県南水道もそうですが、県の役割は、取水して浄化した水を
各市町村等に配るところまでです。 これを水道用水供給事業と
呼びます。 利根川水道の場合、県は、その水を、県南水道企業団
と言う取手、龍ヶ崎、牛久、藤代の各市町村で作っている事業体
(組合)と、守谷市と利根町に供給しています。 そして、これらの
事業体は各家庭や企業に配水しています。 人々が水道を契約する
相手は、住んでいる場所によりますが、県南水道企業団か、守谷市か、
利根町と言うことになります。 

大都市型の水道は、各市が、取水・浄化から末端の配水まで
行うのが普通ですが、それ以外の場合は、茨城県南水道のように、
広域行政をあずかる県が用水の供給を行い、市町村やその組合が
末端に配水すると言うケースが多いようです。

あなたがお住まいの所は、如何でしょう?


これも御縁

さて、御縁とはこういうものでしょうか、私は茨城県での勤務を
終えた後、もとの国の仕事に異動となりましたが、間もなく、
家族ともども、茨城の取手に住むようになりました。 自宅を持とう
としていた私どもにとって、茨城県奉職の御縁もあり、また、茨城
県南の取手は何とか買えそうな建て売りの住宅が供給されていたから
です。 運良く抽選に当たり、そこに居を定め、今日に至っています。

かくして、私どもも、仕事で御縁のある県南水道の水に、お世話に
なることになりました。 ニュータウンに住み始めた頃は、
井戸水を水源とする簡易水道でしたが、やがて、県南水道から
やってくる水道に切り替わり、その井戸も埋設されてしまいました。
「自分が仕事で縁のあった水を飲み、使うようになる」と言うのも、
やはり、御縁なのでしょうね。 しみじみと、そう思います。

でも、地下水から、河川水に水源が変わると、味が落ちたという
声が聞こえて参りました。 確かに、井戸水は美味しいのですが、
取り続けると枯渇や地盤沈下の心配がありますから、これで恒久的にとは
参りません。 それでも河川水に変わって味が落ちたとは、やはり気に
なります。

しかし、やがて、そう言う声も聞かれなくなりました。

そして、県の企業局が河川水を浄化する際、その最終段階で、高度処理の
プロセスを導入するようになったと言う話が聞こえてきました。いずれ
実地の見学をと思うようになり、歳月が経ちましたが、この程、時間を
見つけて、その機会を得ることが出来ました。


利根川浄水場

この浄水場は、茨城県企業局が設置、管理しており、取手市の小文間と
言うところにあります。 もとは、蛇行する利根川の河川敷の中に
あった土地ですが、河の流路を真っ直ぐにするに伴い、堤防の向こうに
水路が行ってしまい、普通の利用が可能な土地となったところです。 

約六万ヘクタールの土地は、諸施設や建物が並び、ほぼ全部、使用されて
いました。 このままだと拡張の余地はないようです。

訪れますと、道路から奥まった所に在る玄関が閉じられていて、入れない
ようになっています。 車を止め、下車して、ゲート脇のボタンを押すと、
応答で、誰が来たのか確認し、問題が無ければ開けると言う仕組みに
なっているのです。 

人々に開かれた施設のイメージと異なるので理由を伺ったところ、平成7年
(1995)のオーム事件を契機に、水道水に毒物を投げ込むなどのテロが懸念
されるようになってからと申します。 それまではオープンだったと申します
から、本当に残念です。

説明を頂き、見学致しますと、中には、取水、排泥、沈殿、濾過、浄水池の
各プロセスに加え、オゾンと粒状活性炭を用いた高度処理の施設が在りました。
この高度処理が、新しく加わった施設です。そして、全量の半分を普通の浄化で、
もう半分を沈殿の後、高度処理し、濾過に戻して、浄化し、企業団や市町に
送水する際、一緒にして送っているとのことです。 これでも、現在の基準を
遙かに上回る上質の水に仕上げていて、カビ臭等の原因となる物質は極く
少量に減らされているとのことでした。

確かに、水道の水は美味しくなっています。 利根川水道の水も
そうなのです。 井戸水から河川水に変わったときのような声が
聞こえなくなったのも、むぺなるかなの感がします。

そして、この浄水場でも、高度処理水のみを入れたペットボトルを、
おみやげにしているようですが、最近、各地の水道の事業体が、ミネラル
ウォーターに対抗して、美味しい高度処理水をポトルに入れて配ったり、
売ったりし始めているようですね。 生水がそのまま飲める日本ならではの
光景でしょうが、大変良いことだと思います。


合理的な配置

この浄水場の下流側に隣接して、相野谷の排水機場があり、大雨などで
増水してたときに、内水を利根川に排水する大事な役割を果たしています。
これがないと、豪雨の際、一体は水浸しになるでしょう。

そして、その下流に、下水道のクリーセンターがあります。下水処理施設
ですが、これを取水施設の下流側に置いているのは合理的な施設配置と
申せましょう。

両方とも、相当の電力を使いますが、利根川浄水場には6,600ボルトの
高圧のままで入っているようですね。

上水道の側では、水を送り、配水する際、圧送しますので、そのとき
最も電気を使うようですが、下水道は自然流下ですから、そこではあまり
使わず、汚水に微生物を入れて分解させる際、それを効率よく行うため、
空気を入れて攪拌する爆気の際に、最も電気を使うようです。 同じ水を
扱うのでも、好対照で面白いと思います。

さらに、最近では、水道なとで出来る小さな落差を利用した、小型の発電が
開発され、実用化されつつあると言いますから、世の中のノウハウの
進歩や環境と資源・エネルギーを巡る意識の変化に驚きます。

以上、各位のお住まいでも職場でも関係のある水、特に上水道について
記して参りました。 ご参考とされ、更に関心をお持ちいただくようになれば、
幸いです。

有り難うございました。

_______________

いばらき大使 仲津 真治
nakatsu-masaharu@mbk.nifty.com

新しいホームページを開き、更新を続けています。
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映画「男たちの大和」と第二次世界大戦
  Date: 2006-01-21 (Sat)

仲津真治です。 新年となって少し日が経ちますが、如何
お過ごしですか?  引き続き、多事多端ですね、本当に
良い年になって欲しいと願わずにはおれません。

さて、今回は、今も上映されていて評判の映画「男たちの
大和」を時間を見つけ、鑑賞しましたので、そのことと、関連
することについて記したいと思います。 長めですが、ご笑覧
頂ければ誠iに幸いです。


北緯30度43分 東経128度4分の海

この映画は、鈴木京香演じる「内田真喜子」という女性が
鹿児島県の枕崎漁港を訪ねるところから始まります。
真喜子は、戦艦大和の乗員で辛くも生き残った内田守
二等兵曹が預かり育てた娘でした。 その育ての父は、
前年に亡くなりましたが、その遺骨を、大和が沈み戦友たちが
眠る海に、撒いて欲しいと遺言して死んだと言うのです。

真喜子は、枕崎の漁協で、いきなり、その緯度経度を告げ、
その海に船を出して欲しいと懇願します。 結局、仲代達也が
演じる神尾と言う老人が、それを引き受けます。 実は、神尾
老人も、大和に海軍特別少年兵として乗り組んでいた人で、
真喜子から内田の名を聞いて驚き、心に期するものが芽生えた
からでした。

「あれ以来一度も行っていない、その海に自分こそ、行かねば
ならぬ」と。

神尾老人の持つ漁船は、「明日香丸」と言い、戦時、神尾少年が
将来を約束していた野崎妙子(蒼井 優が演じる)から、一緒に
持とうと言われ、「その名前も決めているの」と告げられた船名でした。
妙子は広島で被爆し、亡くなりますが、戦後、神尾は漁船を持ち、
妙子の遺志を受け、その名前を付けます。 これで外洋に出られる
のかと言う小船ですが、15歳の少年の前園敦(池松壮亮が
演じる)が新米の船員・漁師となって手伝っていました。 ここに
真喜子が乗船させてもらい、三人の船旅が始まります。 ときに、
平成17年(2005)4月6日、桜満ちる開聞岳を背に、船は
東シナ海に向かいます。 それは、60年前の昭和20年(1945)、
大和が最後の航海に、呉軍港から出撃したのと同じ日でした。

大海原に出ると、神尾老人の脳裏に、当時のことが
蘇って参ります。 映画は、かくして回想の形で進みます。


戦艦大和が建造された時代

ここで、関連のあることを記しましょう。
昭和16年(1941)の12月8日、太平洋戦争の開戦の日に、
大和は公式試運転を終え、間もなく完成を見た、巨大戦艦でした。 
同型艦の武蔵と同様、18インチ砲(46センチメートル)を主砲として
九門搭載する世界最大・最強の軍艦でしたが、何故か、武蔵より
良く知られ、日本人の心を捉え、戦後、遂にフィクションの世界
ながら「宇宙戦艦ヤマト」となっています。 戦争の末期、日本海軍
ただ一つの大型艦として特攻を敢行、悲劇的な最期を遂げたからか、
大和の名が大和魂の如く日本の国を意味するからなのか、興味の
持たれるところです。

映画では、少年兵始めみんなの憧れの的である大和を、あまり
役立たない軍艦として批判する場面はありません。

しかし、この大和は、往時の日本の工業力と技術の粋を集めたとは
言え、いわゆる大艦巨砲主義の典型として、絶えず、批判されて
来ました。 その批判は造る頃から、ありました。少し前ですが、
大和の建造を認めた、当時の大蔵省の査定を「三大バカ査定の
一つ」と評した、戦後大蔵省の幹部も居ました。

そして、こういう戦艦を造ってしまった往時の海軍のイメージを、
軍部全体に広げ、「だから、日本軍は時代後れで駄目だったんだ、
そして、日本の国も」と批判する雰囲気が今日でもあります。

しかし、本当にそうだったのでしょうか。


航空戦力が優位であった日本

大和・武蔵は、それまで最大の主砲が16インチであったのを上回る
18インチ砲を装備する艦として造られました。 砲が大きくなれば、
弾はより遠くへ飛びますから、敵艦を先に叩けると言う発想から
だったと申します。 実際、大和の主砲で、水平線の彼方の
敵艦を一発で仕留めたこともあると聞きます。

だが、こうした大和・武蔵を始めとする戦艦と、飛行機の時代に
主力となる航空母艦(空母)を、開戦時の日本が幾ら保有して
いたかというと、それぞれ10隻づつでした。 当時は、日米の
海軍力は、ほぼ均衡していたと言われますが、そのアメリカは、
戦艦12隻、空母8隻でした。 この数字を見ても分かるように、
日本の方が航空戦力の必要性をより強く認識し、実際、優位に
あったのです。

このことは、太平洋開戦後、直ぐに実証されて参ります。


真珠湾奇襲とマレー沖海戦

戦端を開けば、制海権と制空権は、しっかりと押さえなければと、
日本海軍は、アメリカの太平洋艦隊の拠点であるハワイの
真珠湾を奇襲し、大きな戦果を挙げます。 航続距離が長く、
優れた旋回性能などで戦闘力の大きかったゼロ戦に護衛されて、
爆撃機と雷撃機が、ハワイに遠い海上から、空母を発進、アメリカの
艦隊主力を遺滅させ、たいした損害を受けずに帰還します。 
そのあまりの成功に、予定されていた二次攻撃が中止されるなどの
作戦変更がありましたが、これは、航空優位をはっきりと示した、
戦闘となりました。

次いで、アメリカと並び、大きな海軍力を有していた英国に
対しても、航空作戦が展開されます。 シンガポールめざし、
マレー半島に進撃した日本軍を迎え撃たんと、英海軍は、
プリンス・オブ・ウェールスとレパルスという戦艦を主力となす
艦隊をマレー沖に展開しますが、日本軍は、これに空から
襲いかかり、両艦とも、撃沈してしまいます。 

この米英への戦闘勝利が示す如く、航空優位を作戦の基本とし、
これを実戦で実証したのは、日本でした。 かくて、太平洋戦争
初期の半年で、日本は西太平洋の制海・制空権を握り、
短期間ですが、支配権を打ち立てます。


悲劇的な日米の生産力の格差

これに対し、アメリカは、緒戦の敗北の現実を直視し、75隻と
いう大量の空母の建造始め、大海軍力の育成を構想、これを着実に
実行して行きます。 アメリカは、優にこれを実現していく生産力を
持っていたのです。 大戦時の日米の生産力の格差は、1対20と
言われました。 端的に言えば、日本が1機つくる間にアメリカは
20機つくり、日本が1隻つくる間にアメリカは20隻つくるという
計算になります。 アメリカが、二正面作戦を採らざるを
得ず、対独伊のため、欧州に大きな戦力を振り向けるとしても、
なお、アメリカの生産力は極めて大きいものでした。

かくして、個々の戦闘で良い勝負をしていても、日本側は次第に
じり貧となり、敗れてしまいます。 実際の戦争も、こういう経過を
辿りました。 

ただ、これをもって、日米の戦争の帰趨は、アメリカの生み出す
圧倒的な物量で決せられたのだとする見方がありますが、それは
必ずしも正しくありません。 そこにこそ、アメリカという民主国家を
見るべき視座があるように思います。


民主主義の発露 
Democrcy loves peace, but fights in anger 

この英文は、民主国家、中でもアメリカの特長を良く
捉えていると言われます。「民主主義は平和を好む。
しかし、いざとなれば、怒り狂って戦う。」と言うことなのでしょう。

これをふまえて、真珠湾の奇襲を考えると、それは作戦としては
見事に成功したが、戦略的には大変なことをしでかしてしまったと
言うことになります。 その攻撃は、日本の対米国交断絶並びに
宣戦布告の文書の交付が遅れている間に始まってしまい、
アメリカ国民は、皆、だまし討ちをされたと受け止めました。

かくて、日本の攻撃は、全てのアメリカ国民を怒らせ、「Remember
Pearl Harbour」(真珠湾を忘れるな!)が、全米の合い言葉となり、
アメリカ人一人一人を全部、立ち上がらせたのです。

この怒りが、アメリカの国力の総動員を可能にしました。
日本側もアメリカの生産力の大きさを承知していましたが、
たとえ、たくさんの飛行機や艦船をつくっても、それらを
動かせる将兵は、必要数が多すぎて、とても養成訓練できまいと
見ていたと申します。 実際、元日本海軍の将校の人から、当時、
日本側はそうした見方をしていたと聞きました。

この映画でも、まだ年少兵の神尾が「アメリカは個人主義の
国だから、とても皆がまとまって戦えない、だから、近いうちに
手を上げる」と語る場面があります。 新聞にそう書いてあった
と言うのです。 当時の日本が民主国アメリカをどう見ていたかが
良く分かる場面です。 しかし、これは、完全に誤解でした。
民主国家の本質を理解せず、侮っていたのです。 私の母は
「あんな大きな国と戦争して勝てるのか?」と思ったと語って
いましたが、こういう庶民の率直な感想が、むしろ当を得ていた
のです。


結果の連鎖とアメリカの参戦

日本の攻撃によって、アメリカは遂に第二次世界大戦に参戦する
こととなりました。 それまで、アメリカの指導部は、英国始め他の
連合国の強い要請を受けながらも、平和志向の強い国民世論ゆえに、
参戦出来ずにいましたが、石油禁輸などで追いつめ、「日本に一発目
を撃たせる」ことで、その狙いは達せられたわけです。 

そして、それは対日戦のみならず、対独伊の戦端を開かせることにも
繋がりました。 なぜなら、ヒトラー率いるドイツが、日独伊三国
同盟のよしみで、対米宣戦布告してきたからです。 ドイツは、
その当時、緒戦の圧勝で短期で決着するはずの独ソ戦が長引き
初めての退却を強いられていましたから、対米まで戦線を広げる
ことは不利なはずでした。 しかも、同盟国日本が、再三の
ドイツ側の要請にもかかわらず、日ソ中立条約を理由に、
対ソ参戦していなかったのです。 しかし、ヒトラーは、日本の開戦を
受けて、間もなく、不利を承知で、対米参戦しました。 第二次
大戦の大きな謎の一つです。 良く分かりませんが、義理堅い
ヒトラーの性格によると言う見方もあるようです。

かくして、アメリカが、一気に、大戦に全面的な参戦となった
わけですが、これで、この大戦争の帰趨は決まったと言ってよい
でしょう。 アメリカの国力がフルに稼働すれば、どうなるか、
十分予想がついたからです。 第二次大戦も、第一次大戦
同様、アメリカの参戦で結着が着いて行くこととなりました。

この第二次大戦に、アメリカは何と千二百万人と言う将兵を
動員します。これが、「個人主義だから、・・・・駄目だろう」と
日本側が見ていたアメリカで起きたことなのです。 艦船や
パイロットなどの教育・訓練も、どんどん進みます。 そのプログラム
が良いとか、システムが良く出来ていたと言うからだけでは
ありません。 アメリカ人の怒りと国や自由を思う気持ちこそが、
それを可能にしたのだと見るべきでしょう。

なお、第二次大戦後となると、アメリカ国民を本気で怒らせた国は
ありません。 ベトナム戦争などは、そうでない典型ですが、
ベトナムは、アメリカの世論が激高しないよう、かなり抑制した
対応をし、局地的な攻勢や反撃に止め、ゲリラ戦を軸にじらし、
時間を掛け出血を強いて、アメリカに厭戦気分が高まるのを待ち、
ついに、撤退させるところまで持っていきました。 アメリカが
引けば、戦争の帰結は火を見るより明らかでして、昭和50年
(1975)のサイゴン陥落へと繋がります。

その意味で、21世紀最初の年に起きた、9.11の大規模テロは、
初めて米本土、しかも、その中枢を襲い、アメリカ人を不安にさせる
のみならず、真底から怒らせたようですか゜、相手が国と異なり、
かつ実態が良く分からないテロ組織ですから、随分、勝手が違い、
異なった展開となっています。 そうした意味でも、21世紀は、
経験したことのない時代に突入したと見てよいと思われます。


日本は情報戦にも敗れた

さて、話を戻しますが、開戦初期の昭和17年(1942)の4月、
戦勝気分に浸っていた日本に対し、アメリカは、何と空襲を
行います。 空母からは本来飛べない陸軍機のB25を、
あろうことか空母ホーネットから飛ばし、帝都東京を空襲させた
のです。 ドウリトル将軍の奇策と言われ、日本に大いなる一矢を
報いました。 B25の編隊は、その後、中国大陸へ飛んでいきました。

日本国内の世論は沸騰、海軍は何をしているんだと言う
非難が巻き起こり、アメリカの残る空母戦力を壊滅させよとの
声となり、それをおびき出すため、戦略的意味の乏しい
ミッドウェー島の攻略作戦が計画されることになりました。

かくして、昭和17年6月5日、同島近辺で日米の機動部隊は
激突しますが、アメリカ側のレーダーの性能が日本の物より遙かに
良く、早めに日本側を発見、攻撃を成功させ、日本は三隻の
主力空母を失う大敗を喫します。 的確な情報をどちらが先に
入手するかが、勝負の分かれ目となったケースでした。 この戦に
戦艦大和は初めて出撃しますが、これといった戦果はありません。

このミッドウェー海戦の結果、太平洋戦争の形勢は逆転、
その8月からのガダルカナル島の戦いに始まって、日本は連戦連敗、
敗戦への道を転がっていきます。

戦艦大和も、この後、昭和19年(1944)の10月、フィリピンの
レイテの戦いに加わり、戦果を上げるなどしますが、レイテ沖海戦
全体で見ると大敗となり、同型艦の武蔵や主力空母四隻を
失うなど、日本海軍は、もはや連合艦隊と呼べるようなものを
持たなくなってしまいます。 そして、通常の作戦だけでは継戦でき
なくなり、このときから、神風特攻隊が登場してくるのです。

そして、いよいよ最期の沖縄戦へと舞台は移ります。


水上特攻

昭和20年(1945)の4月、米軍は沖縄の攻略に取り掛かります。

対する日本側で海軍は、種々の議論があったものの、結局、大和を
旗艦とする十隻の艦隊を編成、軍艦初の特攻作戦を計画、
実行に移すことになりました。 航空特攻のみならず、水上特攻も
行おうというのです。 その主力は戦艦大和で、片道燃料を積み、
沖縄の海域に進出、アメリカ側の輸送船団を撃滅したのち、那覇の
港に突っ込み、乗り上げ、砲台となって、巨砲を撃ちまくり、上陸して
いる米軍に大打撃を与えんとする作戦でした。 戦闘機の援護は
一機もない、まさに特攻でした。

この無謀で、巨艦を海岸に乗り上げる等という前代未聞の作戦には
当然異論が有り、下士官、兵のレベルでは多くの不安と疑念を引き
起こします。 作戦の内容が明確に知らされる前から、そういう認識が
広まりました。 映画は、この辺りを、多くの下士官・兵の行動を
一つ一つ取り上げて描いています。 母、妻子、恋人などとの別れの
場面が続きます。 泣かせるところです。 やけ酒、斉唱、賭け事
等のシーンもあります。

特攻、つまり、ほぼ全員の確実な戦死を意味する、その攻撃について、
「何のため、その意義は?」という声が起き、下士官・兵の間で議論さ
れ、取っ組み合いまで行われます。 

その時に及び、いよいよの覚悟を「死二方用意」として、下士官・
兵に説いて来た、臼淵大尉は、「敗れて目覚める。 さすれば
日本が救われる。 それしかない」と皆に語ります。 実在で
あった若い将校で、長島一茂が演じています。 そのとき、大尉は、
幕末の頃に触れ、「薩摩は英国と戦い、負けて目覚め、初めて
進歩に向かった。 長州も、・・・・・」と言います。 そして、「新
しい
日本のために死ねる。 それで本望ではないか。」と皆を納得させます。
この映画の、そして原作の主張の真髄でありましょう。

いよいよ、出航となる前、各員に思いのたけを遠くの空に向け、
絶叫させます。

遂に、4月6日午後、大和等の艦隊は出航します。 直ちに、
アメリカ側の知るところとなり、米潜水艦による追尾が始まります。 
大和の出撃を受けて、アメリカ側では、この世界最大の戦艦に
最期の死地を与えてやろうと、水上戦闘で迎え撃つ案も検討されたと
聞きます。 しかし、水上では大和の戦闘力の方が大きく、遠くまで
及びますから、アメリカ側が、大きな損害を受ける恐れがあります。 
かくして、やはり、航空機の爆撃や雷撃で叩く戦法が採用されました。
航空優位の現実が、大和の最期にも実示されることになった
わけです。


激戦・沈没

翌4月7日、雲霞のような飛行機の大群が大和に襲いかかります。
大和は、副砲、高角砲、機銃などを総動員し、退避行動を取りつつ、
果敢にします。 大和の実物と同じ大きさのセットを精巧な仕様で作り、
撮影したと言うだけあって、戦闘場面は猛烈な迫力があります。

しかし、18インチの主砲は結局、火を吹きませんでした。 生存者の
証言によれば、主砲を撃つと凄い砲煙が出て敵機が見えなくなると言い、
また、撃てば艦がより大きく見え、敵が攻撃をしやすくなるなどの理由
で、砲術長の要請を艦長は容れなかったと申します。 更に、米軍機は、
レーダーで照準を定め、十分接近してから、急降下で攻撃してくるので、
発見したときは近すぎて主砲を撃ちようがないと言う事情もあったよう
です。 巨大な主砲こそ、戦艦大和の戦闘力の核をなすものなのに、当
初1200発積みこまれた巨砲の砲弾が、四年近い戦役中、180発程
しか使われなかったと、資料で読んだことがありますが、大和は、やは
り、批判した人々の評価の通り、意図した戦闘力をあまり発揮できない
存在で終わりました。

さて、それでも、大和は、当初、米軍機をかなり撃ち落とします。 
しかし、爆弾や魚雷が命中し始め、次第に、大和の戦闘力は落ちて
いきます。 将兵も飛ばされ、銃座や砲塔も壊れ、破壊が集中した
側が大量に浸水、艦が傾き始めます。遂に、復元不能と判断され、
総員退去の指令が出ます。

海に落ちて行く者が多く出る中、やがて、大和は大爆発を起こし、
巨大なキノコ状の雲となり、三千の将兵もろとも、海へ沈んで
行きます。 暫くして、少数の将兵が、艦隊を組み近くに展開していた
駆逐艦に救助されて行きます。

その中に、内田兵曹や神尾年少兵が居ました。

かくして、日本側のほとんどの将兵が戦死して戦闘は終わりますが、
墜とされた米軍機の操縦士は、脱出し、多分大部分が救助されて
いたと思われます。 アメリカ側の人名尊重の考え方は徹底しており、
飛行機の防護も厚く、将兵が長く活躍できるよう、大事にしていたから
です。 大和の将兵がどんどん戦死していく戦闘場面で、上空を飛び交
い、時折り、撃ち落とされる米軍機を見ながら、そう言う風にも映画を
見ていました。


散骨、敬礼、そして帰途へ

大和の轟沈で、場面は、現代の東シナ海に戻ります。 明日香丸は、
遂に、大和が沈んだ、その海に辿り着きます。 

真喜子は、その海で、「亡き戦友のところに父の骨を帰さなくては、
私の昭和は終わらないのです」と語り、父に代わって敬礼、

「内田兵曹、ただ今、帰りました。 長生きさせて頂き、
有り難うございました」

と言い、遺骨を海に流します。 素晴らしく、しかし、悲しい
シーンです。 これは、実際、原作のモデルとなった内田牧子
さんの手で、前年の平成16年の4月7日に行われたことと
申します。 原作者の女流作家辺見じゅんも、演じた鈴木京香も、
この牧子さんに会っています。

暫しの沈黙の後、明日香丸は、突然エンジンが始動、その響きも
高らかに、帰りの海路に疾走し始めます。 何と、15歳の現代少年、
敦が、船を起動させ、しっかりした表情で操舵しているのです。

それは、当時同じ15歳であった神尾年少兵に代わり、60年後の
同い年の少年が、往路の海で戦艦大和と人々の物語を聞いて
自覚し、未来の日本に向け、歩み始める姿を象徴するものでした。

このラストシーンこそ、この映画が戦艦大和と、そこに生きた人々の
生涯を描きながら、日本の将来への想いを語り、次代を継ぐ若人に
訴える、最も意義有る場面なのでしょう。


以上、相当の長文で失礼いたしましことを御寛容賜り、
また、ご笑覧頂いたことに深謝いたします。 本当に
有り難うございました。

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いばらき大使 仲津 真治

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